貼られた安全
あの現場では、「安全」は目に見えるものだった。
車体の側面に貼られた黄色いステッカー。
それが貼られていれば、作業中。
近づくな、触るな、確認済み——そういう意味だった。
けれど、その日も、誰も作業していなかった。
開始時間のずっと前から、もう貼られている。
誰もいない車体に、誰も触れていないのに、すでに「危険です」と宣言されている。
最初は違和感があった。
でも、周りは誰も気にしていない。
前に死亡事故があった、と聞いた。
それ以来、「ちゃんとやっている」という証拠として、
作業前にステッカーを貼るのが当たり前になったらしい。
——当たり前。
それは、安全のためじゃない。
安全に見せるためのものだった。
正社員は、まだ信じている。
だからこそ、自分たちから声をかける。
「いいですか」
「入ります」
返事があるまで待つ。
それが命を守ると、知っている。
でも、同じ場所で働く派遣は違う。
何も言わずに入る。
返事も待たない。
声をかけるという発想すらない。
それでも正社員は、声をかける。
返事がなくても、かけ続ける。
それは意識の違いだった。
何が危険で、何が命を守るのか。
何に注意を向けるべきなのか。
一度、失いかけたからこそ、
分かっている。
人は、何かにとらわれると、何かを失う。
効率。手間。慣れ。
そういうものに引っ張られた瞬間、
本来守るべきものが削れていく。
そのことを、知っている側と、
知らないままの側が、同じ場所にいる。
その隔たりがある限り、
安全は、いつでも崩れる。
そしてもう一つ、もっと静かな問題がある。
派遣に対する教育は、明らかに甘い。
形式だけの説明。
一度聞けば終わりの、安全教育。
だから、声掛けそのものができない人間がいる。
やらないんじゃない。
知らないまま、現場に立っている。
危険作業の中で、
その一言で自分の身を守れるということすら、
理解していない人間がいる。
それは怠慢じゃない。
最初から、教えられていないだけだ。
——それを、俺は一度だけ、はっきりと理解した。
車体の上で作業していたときだ。
高所で、足場も限られている。
下では、ホッパーが動く構造になっている。
本来なら、動くはずがない。
上に人がいるときは、停止している——そういう前提だった。
だから、何も疑わなかった。
次の瞬間、
足元で、低い駆動音がした。
ホッパーが、動いた。
声はなかった。
安全を気にしていたせいで、
クラクションには気づかなかった。
誰も、何も言っていない。
ただ機械だけが、当たり前のように動いた。
——あとから思った。
あのクラクションは、
本当に人を守るためのものだったのか。
鳴らした。
だから、自分は悪くない。
それを証明するための、音。
もしそうだとしたら、
あの現場で鳴っている音の意味は、
もう安全じゃない。
あのとき、はっきり思った。
——あ、死ぬかもしれない。
理由はなかった。
ただ、「そういう状況にいる」と分かった。
運よく、何も起きなかった。
でも、その一瞬で十分だった。
その日のうちに、退職を決めた。
派遣会社には引き止められた。
「よくあることだ」と言われた。
だから、書いた。
もし何かあったら、これが理由だと。
あの状況があったと。
遺書みたいなものだった。
自分にとっては、ありえないことだった。
でも——
もし、この現場ではそれが「当たり前」なら。
次に死ぬのは、自分かもしれない。
そう思った。
その後、車体には新しいステッカーが貼られた。
上部作業中、動作禁止。
正しい対応なのかもしれない。
でも、問題はそこじゃない。
貼られる前から、
守られていなければならなかった。
声がなくても、
確認がなくても、
絶対に動いてはいけなかった。
その事実は、
一枚のステッカーでは消えない。
貼られたステッカー。
形だけの音。
交わされない声。
安全は、守られているんじゃない。
守られていることになっているだけだ。
あとがき
この話は、実際に自分が経験したことをもとにしています。
あの現場で感じたのは、
危険そのものよりも、
それに対して誰も疑問を持っていないことでした。
本来なら、止まっていなければならない状況。
本来なら、誰かが声を上げなければならない場面。
それが当たり前のように流されている。
自分にとっては、ありえない安全意識でした。
ただ、このことを誰かに強く訴えたいわけではありません。
けれど、最悪になり得る瞬間が、
まったく問題として扱われていない状況は、
どうしても不自然で、どこか異様に感じられました。
この文章は、その違和感を、
そのまま残しておくために書いたものです。
意味がわからない文章だと思いますが、
そのほうが自分にとっては、いいのかもしれません。




