ブレーキの記憶
まえがき本作はフィクションです。
しかし、ここにある問いは絵空事ではありません。
「倫理や非道理には、それ自体に別の形の合理性があるのではないか。
それを忘れて単一の合理性(効率や利益)を突き詰めた結果、人類は過去に何度も絶滅しかけたのではないか」という仮説のもとに、この物語は作成されています。
人間が人間を選別し、無駄を完全に排除した先にあるのは、本当に幸福なユートピアなのでしょうか。それとも、種の終わりなのでしょうか。私たちは今、その分岐点に立っているのかもしれません。
1. 効率の檻 西暦2260年。
世界から「お金」という曖昧な概念が消え去って久しい。
人々の胸元には、中央人工知能『ラプラス』がリアルタイムで算出する『生存生産性スコア(LPS)』が、青白いホログラムとして浮かび上がっていた。
「LPS:94.2」シニア監査官である二十六歳のレオンは、自らの高い数値を一瞥し、冷徹に指を動かした。彼の仕事は、社会の「贅肉」を削ぎ落とすことだ。
スコアが合格基準である「50」を三ヶ月連続で下回った人間は、社会保障を打ち切られ、都市の最外郭へと機械的に排除される。
「レオン監査官、本日の対象者は、区画9の『アキ・サトウ』。LPSは22.4。完全に持続不可能な数値です」
部下の報告に、レオンは表情一つ変えずに頷いた。
「合理的に処理しよう。社会の総生産性を維持するためだ。感情を挟む余地はない」
かつての資本主義社会は、資本家が富を独占し、それを子孫に相続することで人を「選別」していた。
しかし、そのシステムは格差の拡大と環境破壊によって一度崩壊した。
現在の「極限合理主義社会」は、その反省から生まれたとされる。
血筋や過去の蓄積ではなく、今この瞬間にどれだけ社会に貢献しているかという「生産性」だけで人間を選別する、完璧に公平で、完璧に冷酷な世界。
だが、レオンは最近、胸の奥に冷たい違和感を抱えていた。『ラプラス』の深層データを解析していた際、不可解な歴史のバグを発見したのだ。
過去数千年の人類の歴史をシミュレーションすると、社会の生産性と効率性が「100%」に近づき、無駄な人間が完全に排除される直前になると、なぜかすべての文明が突如として内乱や自滅を遂げている。「なぜだ……? 無駄を排除し、合理性を突き詰めた先にあるのは、完璧な繁栄のはずではないのか」その謎の答えを求め、レオンは自ら現場へと向かった。
対象者アキ・サトウが住む、都市の最底辺、スラムと呼ばれる薄暗い居住区へ。
2. 禁忌の不純物錆びついた金属の扉を開けると、そこはカビと古い紙の匂いで満ちていた。部屋の奥に座っていた老人は、自分のLPS「22.4」の赤く点滅するホログラムを見つめながら、静かに紅茶をすすっていた。彼がアキだった。
「監査官様がわざわざお出出しか。私の効率の悪さが、そんなに都市の計算を狂わせていたかね」アキは皮肉げに、しかし穏やかに微笑んだ。
部屋の壁には、電子化されていない、本物の「紙の書物」が文字通り山積みにされていた。
それらはすべて、現代社会では「生産性を下げる有害な思想」として禁じられた、旧時代の倫理学や哲学の書物だった。
「アキ・サトウ。君のスコアは社会の足を引っ張っている」
レオンは事務的に宣告した。
「君の年齢、健康状態、そして何より、スコアの数値化を拒む『読書』という非生産的な行為。
すべてが非合理的だ。なぜこれほど無意味なものにしがみつく?」
「無意味、か」
アキは立ち上がり、一冊の古びた本をレオンの前に置いた。
「若き監査官よ。お前たちの言う『合理性』とは、かつて金持ちたちが振りかざした『市場原理』と何も変わらない。かつての資本家は、リストラやコストカットという冷徹な判断を『合理的だ』と言って正当化した。今の支配層も、スコアという新しい道具で同じことをしているだけだ。なぜだか分かるか?」「社会を最適化するためだ」
「違う。自分が『選別される側』に落ちるのが怖いからだ」
アキの目が鋭く光った。
「彼らは知っている。もし社会のルールが、金やスコアではなく、『誠実さ』や『真面目さ』、あるいは『他者への優しさ』といった人間性を基準にされたら、自分たちが一気に不合格になるということをね。そんなものは子供に遺伝させることも、数値化して独占することもできない。だから彼らは『倫理』を排除し、ルールを『数字』にすり替えたんだ」
「くだらない」
レオンは一蹴した。
「誠実さなどという主観的なものは、社会の運営に何の役にも立たない。不純物だ」
「では、教えてくれ」
アキはレオンの目をまっすぐに見つめた。
「その完璧な合理性の果てに、なぜお前たちのシステムは、いつも自滅の未来を予測してしまうのかね?」
レオンの身体が、一瞬で硬直した。なぜ、この老人がその『バグ』を知っている。
3. 真面目な洗脳と非道理の拒絶
「お前も気づいているのだろう」
アキは静かに語り始めた。
「効率を100%にしようとすると、システムは必ず壊れる。それは機械も人間も同じだ」
「……理由を説明しろ」
レオンの声は、いつの間にか監査官のものではなくなっていた。
一人の求道者のそれだった。
アキは古い本をめくり、ため息をついた。
「お前のように真面目で、優秀で、誠実な人間ほど、その『合理性』という名の洗脳に深く深く囚われる。社会の流す『正しさ』を信じ、一分の隙もなく完璧に生きようとする。だがな、その洗脳が強ければ強いほど、いや、お前たちが真面目であればあるほど、この社会は致命的なバグを引き起こす。――子供が、産まれなくなるのだ」
レオンは息を呑んだ。確かに、ラプラスの管理下にある一等市民の出生率は、ここ数十年ゼロに近い。
「なぜなら」
アキは言葉を重ねる。
「子育てとは、人生における最大の『非道理』だからだ。莫大な金と時間と自由を奪われ、見返りの保証などどこにもない。泣き叫ぶ赤ん坊は論理的な説得など通じない理不尽そのものだ。計算を突き詰めた高度な知性は、必ずこう結論する。『子供を産み育てるのは、自分の人生の最適化を邪魔するエラー行為だ』と。不真面目な人間なら、社会の洗脳を適当にいなして、無駄や遊びといった『非道理』を人生に残せる。だが、お前たちのように真面目な人間は、完璧に合理的であろうとするあまり、自らの手で『非道理』を、つまり次世代の命を排除してしまうのだ」
「そんな……。私たちは社会を良くしようと、真面目に努力しているだけだ!」
「そうだ。誰も悪気はない。むしろみんな『真面目に正しくあろう』とした結果、種としては静かな絶滅に向かっていく。これ以上の矛盾があるかね?倫理や道徳、誠実さといった一見『不合理なルール』はな、人間が思いついた綺麗事ではない。人類という種が、合理性という名の狂気で自滅するのを防ぐために、何万年もの淘汰の果てに遺伝子に刻み込んだ【自己防衛システム】なんだよ。 庶民を合理性の名のもとに削除し、切り捨て始めているお前たちの都市は、外見がいかに先進的であっても、精神的にはとうの昔に終わっているのだ」
その時、レオンの耳元で通信端末がけたたましく鳴り響いた。
中央システム『ラプラス』の冷徹な合成音声が告げる。
『警告。対象者アキ・サトウの滞在区画における、非生産的分子の強制排除プロセスを開始します。カウントダウン、六十秒。監査官レオン、速やかに退避してください』
部屋の窓の外で、排除用ドローンの赤いランプが無数に明滅し始めた。アキを救う手立ては一つだけあった。レオンの手元にある監査官用端末から、ラプラスのメインラインを手動で一時切断すること。
しかしそれをすれば、レオン自身のLPSは「非合理的選択」として検知され、一瞬で最底辺まで暴落する。
それは支配層からの転落、あるいは死を意味していた。
4. 最初の不合理
「さあ、行きなさい」
アキは紅茶のカップを置いた。
「お前のスコアは素晴らしい。こんな老人一人のために、その価値を捨てることは『非合理的』だ」
ドローンの駆動音が、部屋のすぐ外まで迫ってくる。
カウントダウンは残り三十秒。レオンの脳内で、超高速の計算が走った。
アキを見捨てるのが正解だ。
それがこの世界のルールであり、自分の生存確率を最大化する唯一の道だ。合理的になれ。
数字を見ろ。
感情を捨てろ。
真面目であれ。
しかし、レオンの指は、自分の胸元で輝く「94.2」という数字に触れていた。
この数字は、自分がこれまでどれだけ他者を切り捨て、どれだけ冷酷に「真面目」に生きてきたかを示す、血塗られた烙印のようだった。
(もし、このまま合理性を突き詰めた先で、人類が必ず自滅するのだとしたら……)
自分が今ここでアキを見捨てることは、その破滅へのカウントダウンを、ほんの少し進めるだけではないのか。資本家たちが恐れ、捨て去った「誠実さ」。数値化できず、相続もできない、あの非道理。それだけが、この狂った暴走列車を止めるブレーキなのだとしたら。
「……クソ食らえだ、合理性なんて」
レオンは吐き捨てるように言うと、端末を強く叩き、ラプラスの接続プラグを引き抜いた。
「なっ……何をした!」
アキが目を見開く。
『緊急事態発生。監査官による通信拒否。レオン監査官のLPSを再計算します。――94.2……50.0……12.5。排除対象に指定します』
部屋の外のドローンが一瞬動きを止め、その赤い照準が一斉にレオンへと向けられた。
レオンはアキの腕を掴み、背後の非常口へと走り出した。
胸元のホログラムは、いまや最底辺を示す真っ赤な「12.5」に染まり、激しく明滅している。
それは社会的な死の宣告だった。
しかし、レオンの胸の奥を満たしていたのは、かつてないほどの激しい鼓動と、奇妙なまでの爽快感だった。
冷徹な計算の世界から、今、足を踏み外した。
追ってくるドローンの銃声を背中に聞きながら、レオンは笑っていた。
人類が生き残るための、最初の、そして最も誠実な「不合理」が、今ここから始まるのだと信じて
あとがき
物語の結末として、レオンは合理性を捨てて「倫理(非道理)」を選びました。
しかし、私の中には一つの大きな「不思議さ」と、矛盾に満ちた問いが残り続けています。
なぜ、倫理が合理性を突き詰めると人類が絶滅してしまうのか。
そのメカニズムの不気味さです。
合理性を極めた「高度な知性」は、一見すると生存に有利なはずです。
しかし現実には、その高すぎる知性や冷徹な合理性は、「子供を産み、育てる」という、およそ合理的とは言えない泥臭く、非効率で、自己犠牲的な営みを拒絶してしまう可能性を秘めています。
知性が極まると、命を繋ぐ本能と矛盾してしまうのではないか、という恐怖です。
この私の考えが、物語を通じて読者の皆様にどこか伝わっている可能性は否定できないと信じています。
ただ、もし社会が庶民を「合理性」のもとに削除し、切り捨て始めているのだとしたら、もうすでにその文明は終わっている(滅びが確定している)感じがしてなりません。
さらに恐ろしいのは、高度な知性や国家というものは、戦争や、時には犯罪行為さえも
「人類全体の生存のため」
「国家の持続のため」
という合理性のもとに説明できてしまうという事実です。
人口が増えすぎたから間引く、非効率な弱者を排除して全体の資源を守る――。
彼らの持つ「道理」は、時として数百万人の命を容赦なく天秤にかけます。
だとすれば、私たちはこう問い直さなければなりません。
「そうした冷徹な計算式を回せる政治家たちは、本当に『高度な知性』を持っていると言えるのだろうか?」と。
一分の隙もないAIや、冷酷な国家の論理にすべてを委ねて効率化を極めることではなく、あえて不器用で、手間がかかり、お互いを監視し合って暴走を防ぐ「三権分立」のようなシステムを「正しい」とする方が、結果として種を存続させるための「より高次な合理性」なのではないか。
政治家が持つべき真の知性とは、チェスのように人間を効率よく動かす計算能力ではなく、国家という巨大な怪物が合理性の名のもとに暴走するのを止めるための「不格好なブレーキ(倫理)」を、あえて維持し続ける泥臭さのことなのではないか。
物語を書き終えた今、私はそう考えて止まないのです。




