隣のアカウント
地方都市で一人暮らしをする主人公は、壁一枚隔てた隣人の生活音に、どこか現実味の薄い距離感を覚えながら暮らしている。顔も名前も知らない。ただ、夜になると決まって聞こえてくるスマートフォンの通知音だけが、その存在を妙に強く感じさせていた。短く、乾いた電子音が、何度も、途切れずに鳴り続ける。
ある夜、何気なく開いたSNSで、主人公はその音と一致する「誰か」を見つける。投稿の時間帯、生活リズム、断片的な写真――それらが、隣人と結びついていく。確信はない。それでも、なぜか目を離せなくなる。
最初の投稿は、ありふれた日常だった。仕事の愚痴、食事の写真、他愛のない感想。だが次第に、言葉の調子が変わっていく。「いいね」の数に一喜一憂し、フォロワー数の増減に神経質になり、やがて「伸びる投稿」を意識した発言へと傾いていく。過激さは徐々に増し、誰かを煽り、切り捨て、強い言葉で注意を引くようになる。
ある日、一つの投稿が爆発的に拡散される。通知音はこれまで以上に鳴り止まず、壁越しにその気配が伝わってくる。数字は急激に増え続けるが、それと同じ速度で、否定や中傷の言葉も積み上がっていく。賞賛と攻撃が入り混じるその流れを、主人公はただ画面越しに追い続ける。
やがて、隣の部屋から音が消える。あれほど鳴り続けていた通知音も、ぴたりと止む。SNSの更新も途絶える。数日後、主人公は最後の投稿を見つける。そこには、長い説明も感情もなく、ただ「数字から降りる」とだけ書かれている。
その直後、夜の静けさを切り裂くように、遠くから近づいてくるサイレンの音がする。赤色灯の光が、カーテン越しに部屋の中をかすめる。主人公は動かない。ただ、その音を聞いている。
数日後、そのアカウントは跡形もなく消えている。名前も、記録も、そこにあったはずの痕跡は簡単に流されていく。しかしタイムラインを開けば、似たような言葉、似たような熱、似たような誰かが、何事もなかったかのように現れては消えていく。
主人公はふと考える。壁の向こうで何が起きていたのかを、自分は最後まで知らなかった。ただ、知ろうとしなかったわけでもない。ただ見ていただけだった。
そして思う――
これは特別な出来事ではない。
名前も知らない誰かが、すぐ隣で、あるいは画面の向こうで、静かに壊れていくことは、もうどこにでも起きている。
そしてそれは、気づいたときには、すでに始まっているのだと。
あとがき
この物語に出てくる出来事は、特別なものではないと思っています。
ネットはすでに生活の一部であり、そこでの言葉や反応は、その人の趣味や価値観、生き方そのものと結びついています。
だからこそ、それを外側から単純に否定することは、ときにその人の思考や選択の余地まで奪ってしまう可能性がある。たとえそれが善意や「お願い」の形であったとしてもです。
そして、その「受け入れられなさ」は、もう多くの場所に存在しているのかもしれません。
一方で、言葉によって深く傷つく人がいることもまた、疑いようのない現実です。
では、その言葉を書いた人はどこまで責任を負えるのか。あるいは、読むだけの私たちは無関係でいられるのか。
本来なら、自分に直接関係のないことを、疑問にし、仮説を立て、検証しようとする必要はないのかもしれません。
それでも、そうしてしまうこと自体が、人間のあり方の一つのようにも思えます。
これは簡単に答えの出る問いではありません。
ただ、こうした問いそのものが生まれてしまうことは、とても自然な、人間的な叫びのようにも思えます。
それでも私は、誰かが何かを書くことそのものを、完全に否定することができません。
その瞬間、別の誰かの何かを奪ってしまう気がしてしまうからです。
だからせめて、この物語が、
「見ているだけでいること」と「関わること」のあいだで揺れる感覚を、少しでも共有するきっかけになればと思います。




