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考えすぎの街

 この街では、「考えすぎ」は病気とされていた。


 診断は簡単だ。会話の途中で沈黙が三秒を超えると、周囲の誰かが記録する。「反応遅延」。それが三回続けば、検査対象になる。


 だから皆、よく喋った。速く、軽く、曖昧に。


 「それな」

 「まあ、そういうもんでしょ」

 「仕方ないよ」


 言葉は意味を持たないほうが安全だった。

 意味を持たせるには、時間がかかるからだ。


---


 俺は一度だけ、三秒を超えたことがある。


 ニュースだった。どこか遠い国で、また争いが起きたという話。理由はいつも同じように説明される。「防衛」「歴史的経緯」「やむを得ない措置」。


 隣にいた同僚が言った。

 「まあ、向こうにも事情あるでしょ」


 俺は頷こうとして、止まった。


 本当にそうか?

 その言葉は、誰のためのものだ?

 過去は本当に今を正当化できるのか?

 そこまで考えた時、三秒が過ぎていた。


---


 検査室は白く、静かだった。


 「あなたは“意味過多傾向”があります」

 医師は穏やかに言った。

 「多くの人は、言葉を処理のために使います。あなたは理解のために使っている」

 「違いがあるんですか」

 「大きくあります。前者は速く、後者は遅い。社会は速さを必要とします」

 「理解は必要ないんですか」


 医師は少しだけ間を置いた。二秒。ぎりぎり安全な範囲だ。


 「必要ですが、常にではありません」


---


 治療は簡単だった。

 問いを持たない練習。

 浮かんだ疑問を、言葉になる前に流す。代わりに、用意された応答を選ぶ。


 「そういうものだ」

 「難しいことはわからないけど」

 「専門家が決めてる」


 最初は違和感があった。頭の奥に引っかかる何かが、ずっと残る。


 でもそれも、数日で消えた。

 思考は、使わなければ弱る。


---


 退院の日、街はいつも通りだった。

 人々は軽やかに会話し、ニュースは簡潔で、結論はすぐに共有される。

 遠い国の争いも、同じように流れていた。


 「仕方ないよな」

 「歴史があるからね」

 「自分たちを守るしかない」

 俺も言った。

 「まあ、そういうもんだろ」

 驚くほど、すんなり出てきた。


---


 その夜、ふと目が覚めた。


 理由はわからない。ただ、何かが引っかかっている気がした。

 夢を見ていた気がする。

 誰かが、何かを問いかけていた。


 ――本当に?


 その言葉だけが、ぼんやり残っている。

 意味を掴もうとして、俺は少しだけ考えた。


 一秒。

 二秒。

 三秒。


---


 そこで、やめた。

 深く考える必要はない。

 そう教わったのだから。


 思考は、速いほうがいい。

 皆そうしている。


 それで世界は、うまく回っている。


---


 ――本当に?


---


 今度は、すぐに答えた。

 「まあ、そういうもんだろ」

 そして、眠った。


  あとがき


 この物語の中で描いた「考えすぎの排除」は、極端な設定ではあるが、完全な空想とも言い切れない。


 人は速く考えることに慣れるほど、遅く考えることが難しくなる。

 それは能力の向上であると同時に、ある種の偏りでもある。


 深い思考には時間が必要だ。

 問いを保留し、違和感をそのままにしておく力が必要になる。

 しかし、日常が速さを求めるほど、その余白は削られていく。


 やがて人は、深く考えようとする瞬間にわずかな抵抗を感じるようになる。

 肩がこわばるような、落ち着かない感覚。

 それは身体が「非効率」を避けようとする反応なのかもしれない。


 現代において、その傾向を加速させるものの一つが、常に手元にある情報端末である。

 短く、速く、次々と流れてくる情報に触れ続けることで、思考は自然とそのリズムに同調していく。


 もちろん、それ自体が悪いわけではない。

 速い思考は多くの場面で有効に働く。


 ただ、その一方で、深く考えなければ辿り着けない領域があるのも確かだ。


 そしてもう一つ、個人的な感覚としてだが、

 深い思考の中にいるときにしか得られない種類の安らぎがあるようにも感じている。


 それは結論に辿り着いたときの安心とは少し違い、

 問いそのものと静かに向き合っているときにだけ現れる、

 ごく小さく、しかし確かな落ち着きである。


 少なくとも自分にとっては、速い思考に合わせようとするとき、

 どこか肩に力が入り、自分の本来の力をうまく発揮できていない感覚がある。


 そして時には、特に何かをしているわけでもないのに、

 気づけば肩に力が入っていることがある。

 理由ははっきりしないが、思考の速さや環境のリズムに、

 身体が無意識に適応しようとしているのかもしれない。


 それは、もしかすると不自然なことではなく、

 ある意味で当然の反応なのかもしれない。



 もしそうだとすれば、速さに適応することと引き換えに、

 私たちはその感覚から少しずつ遠ざかっているのかもしれない。


 そしてもしかすると、結果を出す人間とは、

 そのような深い思考に、無理なく身を置くことができる人なのかもしれない。


 この物語を読んだあと、もしどこかに引っかかるものが残っているなら、

 その違和感をすぐに処理せず、少しだけそのままにしてみてほしい。


 それは「考えすぎ」ではなく、

 あなた自身の思考が、まだ機能している証かもしれない。


 ただ自分にとっては早い思考が肩にに力が入る原因それは

自分の力を発揮できない要因であることは、もしかしたら、当然なのかもしれない・・・


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