二十五、襲撃
海天祥の書斎は、一族の図書室でもあります。
図書室長が一族の長というべきでしょうか。
巫女は調べ物をしていた。場所は勿論長老海天祥の部屋である。
幼い頃の青玉はよくこの部屋で本を読んでいた。時にはそのまま眠ってしまうこともあったが、それを半ば期待して少年の隣にいつもいたのは、妹の紅玉である。何か怪我をした動物を見つけては、この部屋に駆け込んで治療の為の方法を探したり、餌の与えかたを学んだ。自然災害があれば、それを防ぐための知恵をここから得ようとした。何かいい方策を思いつけば実験を行い、失敗すれば再び新たな発想を求めてここを訪れ、徐々に実験の規模を大きくしていったその姿は、紅玉の目蓋の裏に焼きついている。その兄を援けたい。そう思ったのはいつだったのか、本人さえも確とは憶えていない。ただ、そう思ったその日の夕焼けと、夕陽に焦がれて急ぎ足で昇ってくるような天狼星の、冴え冴えとした青白い光のことだけは忘れていなかった。
ぱたん。と書物を閉じた。手詰まりとなっているのは明白だった。
「紅玉」
爽やかに心地よく響く低音が紅玉を包んだ。語尾に微かに籠もったような柔らかさがあって、振り向かなくとも誰なのかは判る。胸にそっと左手を当てて一呼吸置き、静かにそちらを見ると、青玉が天祥の部屋の扉に佇んでいた。
「三哥」
「疲れたろう。お茶にしよう」
優しく微笑む兄に、感謝を込めて微笑みを返しながら肯く。二人は広間へ向かった。ぱたん。と音を立てて扉が閉ざされた瞬間、それまで紅玉が開いていた本から、黒い何かが天井に向けて矢のように突き抜けていった。
黒玉は、目的地もなくただぼーっと歩いていた。何をすればいいか思いつかなかったからである。婚儀のことなど頭からすっぽりと抜けていた。その足がふと止まったのは、不思議なものが見えたからである。色は黒い。それを光と表現することが許されるなら、それはまさに黒い光である。それが海天祥の書斎の扉から細く鋭く伸びていた。
「天祥おじいさま?」
おずおずと声を掛けた。反応はない。静かに扉をあけ、黒玉は目を見開いた。悲鳴をあげるまえに、赤い髪の娘の意識はそこで途切れた。締め切っていなかった扉が、ぱたん。と閉じた。
方天戟を使っていた黄玉は、許婚の呼ぶ声を聴いた気がした。呉鉤で相手をしていたのは、藺槍玉である。
「槍玉三哥、すみません。黒玉大姐に呼ばれました」
「はあっ?!」
見回しても赤い髪をした娘の姿はない。第一、一緒にいるのだし黒玉が呼んでいたなら声くらいは自分にも聞こえるだろう。
「申し訳ありませんが、後日また稽古をお願いします。では急ぎますので」
言葉だけは馬鹿丁寧に、しかしそのまま槍玉を置き去りにするあたり、尋常とは言えない。しかし黄玉が誰の弟であったかを思い出して、ふと槍玉は尋ねた。
「何があったんだ?」
「俺にもわかりませんが、厄介な事であることだけは間違いないでしょう」
そう言って黄玉は一目散に走り出した。館へと。
目を閉じて、気配だけで黒玉を捜す。広間から海天祥の書斎のあたりまで来た時、入口のあたりに研磨せぬ虎目石が落ちていることに気付いた。求婚の時、黒玉に少年が与えたものである。書斎の扉を開けようとしたが、開かない。重い扉ではあるが、しかし鍵は掛かっていないはずである。何か人為的な作為が感じられて、黄玉は強行突破することにした。大きく深呼吸し整えて、左足に気を集める。
「はっ!」
鋭い気合の声とともに、分厚い扉は蹴破られた。書斎の床に黒玉が横たわっていた。その真上にあった黒い光のようなものが、その豊かな胸を目掛けて落下しようとしている。
「大姐!」
方天戟を投げ出して咄嗟に駆け出し、赤い髪の娘を横抱きにしてそのまま一回転した。間髪をおかず、背後の床面に光が突き刺さる。衝撃で黒玉が目を醒ました。
「黄玉?! いったい…?」
「俺にも判りませんが、なんであんなところに寝てたんですか?」
細かい事情を説明し合う時間はない。床の上に蟠っていた光が新たに動き出そうとしている。その標的は黒玉であるようにみえた。光には闇。しかし黒い光に闇が通用するのだろうか。それにこの状況で闇は作れない。ならば、跳ね返すのが一番効果的かも知れない。
「それは……ちょっと、下ろして!」
「駄目です」
黒玉を抱えたまま、じりじりと黄玉は位置をずらした。今この黒い光から目を逸らしたら、黒玉が狙われる気がした。その前にこれを仕留めねばならない。耳元に出来るだけ小さな声で囁く。
「大姐」
「えっ?」
「俺は今両手が塞がってます」
「判ってるわよ! だから下ろしてって言ってるんじゃない!」
黒玉のもっともな台詞は無視して、勝手に話を先に進める。
「方天戟を置いてあるところまで移動します。俺が何とか飛ばしてみますから、あの光を刃の部分で跳ね返して下さい」
そんな面倒なことをするより一旦自分を下ろした方が早いような気がするのに。と標的本人は呑気なことを考えながらもその胸の中でこっくりと肯いた。それに引かれるように、黒い光が再び迫って来ようとしていた。
がんっ。ぱしっ。
黄玉が右足で方天戟を跳ね上げ、黒玉が絶妙の間合いでそれを受取る。その直後、光は娘の胸元に向けて一直線に突き進んできていた。思わず目を瞑る。
「!」
光は刃に弾き飛ばされた。その衝撃の余波を食らって、黄玉は黒玉をしっかりと抱きしめたまま壁面へ強かに全身を叩き付けられる。少年は二人分の体重分の衝撃も一緒に受け止めたのだった。そのまま床に投げ出されるかと娘は覚悟していたが、黄玉はその腕を緩めたりはしなかった。却ってきつくなったようである。
かーん、かーん、かーん。 跳ね返した黒い光が当たったと思しき場所から、乾いた音を立てて、黒い塊のようなものが転がる。塊はそのまま静かに書斎の扉の方へ「流れて」行った。だが、二人ともそれに気づいた様子はない。
衝撃がおさまるとずるずると少年の体は滑り落ちて、床にようやく足が着いた。体勢を崩してよろけ、壁に背を預けたが、許婚はしっかり確保したまま、微動だにしない。
「黄玉、黄玉……!!」
泣きじゃくって狂ったように名を叫んだが、少年が苦しげに痙攣に堪えるのを、どうしようもなく見ているしか出来ない。
「いやあ! 傍にいるんでしょう! ずっと守ってくれるんでしょう?! 抱いてあげないわよっ!」
黄玉の体がぴくん。と動いた。
「そりゃ厭ですよ」
「黄玉?!」
脱力したように黒玉の腕の中に倒れこんだ。娘の耳朶をこっそりと舐め、荒い息を注ぎ込む。
「こんなに長いこと待ってるのに」
それだけ言うと、ずるり、と身を滑らせた。体を支えている力さえも、もうなかったようである。黒玉は憔悴しきったその顔に頬を寄せた。が、到達直前にしなやかな腕にがっちりとつかまれていて、唇は塞がれていた。
「!」
片目を閉じて、にやっと笑った少年は、いつもの表情に戻っていた。驚き呆れた赤い髪の娘は、一瞬怒りを忘れかけたが、右手をしっかりと握り直し、その拳で目一杯に殴りつけた。
「いってぇ!」
それから涙をためた蒼瞳をそっと閉じて、許婚の腕の中に身を投げ出した。
黄玉は「巫女に一番近い男」だったりします。




