十九、<回想>雲海を越えて
この山は黄山です。
地の果てまで幾重にも折り重なる山々は、一つひとつが切り立った崖で、その岩肌は刀で切断したように滑らかで鋭い。地面に対してほぼ垂直に近い、突き立ったような岩山の谷底は、覗き込んでもどのくらいの深さなのか、皆目見当がつかなかった。そこからひっきりなしに水蒸気が上がっている。まるで頭をもたげた竜のように次々沸き起こる水蒸気は、乳のような濃い白さを以って視界を奪い、その向こうにある岩山の形さえも隠してしまう。それは、どこまでも続くような雲海に混ざっていき、いつしかその一部になっていた。その雲海のところどころから、まるで大海原に浮かぶ小島のように、頂上だけが恥かしげに顔を覗かせている。
崖の天辺に、まるで模型かなにかのようにさえ見える建物が、ほんの少し碧みがかった瞳に映って、焦茶色の髪の青年は奇異の念に駆られた。何故このような場所に作られたのかと。天に届きそうな程の坂道をどこまでも登っていかねばならない。人ひとりがようやく通れる程の道である。一歩足を踏み外したら、深い谷底へ落ちて行くだろう。一度落ちたら生還は望めまい。つかまるべき手摺さえない道を、体力の配分を考えつつ青年は踏みしめるように歩き続けていた。山の高さはどれくらいなのだろうと思ったが、その数字を知ってしまうのは怖い。世の中には知らない方がいい事というのがあるものだという、海天祥の言葉がふと頭を過ぎる。
西の空の雲の切れ目に白く細い下弦の月が見える。ふと振り返ると雲海の彼方は東から色が変わっていた。陽が昇り初めていたのである。朱と橙を混ぜたような鮮やかな空の下から、楕円に近いそれが名状し難い何かを伴って夜の深い闇を突き破って来る様は、生命そのものの輝きに似ていた。力強さと愛しさに満ちて、それまでに見たどの旭日よりも深い感慨を青年にもたらしていた。
「白玉…」
その瞳から、涙は零れなかった。ただ、深く温かい懐かしさがやわらかく面を彩ったようである。
「私を導いてくれるのか」
何時の間にか立ち止まっていた。縞玉は暫く昇る朝日を見つめていたが、やがて意を決したように更に上へと歩き始めた。その先には、彼の目指す場所があった。
朱塗りの門をくぐって、青年は焦茶色の髪を振った。中には外の絶景からは想像も出来ない庭と建物があった。小さな池もある。その池の辺をまわって、丁度大人の歩幅の分だけ離れた敷石をゆっくりと辿り、二つ目の小さな門を通り抜けた。それは最初の門を正確に縮小したもので、装飾も全て縮小している。その先にはまた庭が続いていた。まるで仙人の箱庭のようだと縞玉は眺めた。館の主の性格を反映するものがこの庭であるなら、この山を登り始める時以上の覚悟が必要かと思えた。三つ目の門は二つ目の門より更に小さく、身を屈めねば通れない。その門をくぐり終えた時、目の前にはまた新たな池があった。その先にこじんまりとした館が見えて、青年は息をついた。漸く到着したのである。
「虞縞玉です。老師はご在宅でしょうか」
反応はなかった。青年は躊躇った後、池の端の石に腰をかけて待つことにした。ずっと歩き詰めて、疲れていたこともある。背負ってきた荷物は腰を下ろした石の隣に立掛けた。
先触れは、足音を立てずに静かにやって来た。威厳のある凛々しい顔立ちは、しっかりと縞玉に視線を向けていながら、無関心そのものの表情である。体毛はふんわりと長く柔らかそうに見えた。その地色は橙を帯びた明るい茶で、体下面を白くもったりとした柔らかい毛が覆っていた。頬と首の毛は若干他の毛よりも長いようで、黒い縞の間隔はやや広めかも知れない。逞しい前肢が地面を踏みしめて、縞玉の腕よりも長い尻尾が見え隠れしている。その姿に重なる記憶があった。
「虎玉?」
数年ほど前、密猟者のために母虎を失った子虎を青玉と妹の巫女紅玉が保護し、暫くの間養い育てたことがあった。巣穴にいた二頭の子虎のうち、一頭は衰弱が激しく、結局一頭だけが成長出来たのだが、成体になれる個体は多くはないようである。その怪我が回復するのを待って、いつか自然に帰すことを考慮した結果、ここに預けることになったのだった。徐々に自然に馴染みつつ、近頃はここにひっそりと住む老師の護衛代わりを務めている、と小耳に挟んでいた青年は、その登場を驚きはしなかったものの、その大きさに目を見張った。虎玉は縞玉から少し離れたところで立ち止まり、後ろからゆっくりと歩いてくる人影を待つように左に避け、その場に音もなく座った。その頭を愛しげに撫でる白い手の指の動きに、うっとりしたような目をしつつ、甘えるような声を出す。
「虎玉、ありがとうね」
その声に満足したかのように、虎玉は音もなく立ち上がり、長い尻尾をゆらゆらと振りながら歩き去る。その後姿を見送り、館の主が縞玉の前に立った。
「待たせてしまったかしらね、縞玉。久しいこと」
嫣然と微笑むその姿は、歳を重ねてはいても瑞々しさに満ちていた。年齢を考えれば縞玉の父叔鐘より五つ若い筈である。しかし父と比べると、妹どころか娘とさえ言っても肯く者はいそうだった。白く艶やかな肌、豊かな黒髪と少し大振りの鮮やかな黒瞳。限界まで薄めた墨にも似た薄化粧は、女性らしさを感じさせつつも嫌味のないものであった。何よりも傾斜の険しいこの崖の道を登ってきていながら、息も上がっていない。女仙とはこういうものか、と青年は驚異の念を憶えた。
「早くからお出かけだったのですね」
「払暁にしか採れないものがあるの。虎玉に助けて貰ったわ」
少女のような微笑みを浮かべる。しかしその両手にはそれらしいものはないようだ。
「叔瑤叔母上…、いえ老師。お久しゅうございます。」
甥の言葉を聴いて、ふと首を傾げた。切れ長の黒い瞳が先を促す。
「弟子を取らぬのは存じておりますが。医術を学びたく参上致しました」
そうやって項垂れた青年を見遣って、空を仰いだ。
「……白玉? あの子の?」
「……どうか」
海叔瑤は深い吐息をついた。姪が亡くなったことは知ってはいる。その病のことも。しかし。
「ここでの生活は、恐らくお前の想像以上に厳しいものとなりましょう。お帰りなさい」
「老師!」
「ここへ来ることは、逃げではないのですか? 白玉の思い出が詰まる海邑を捨てて来ただけでしょう?」
「いいえ!」
碧みがかかった瞳の色が、意志の強さを現すように深みを増した。
「留まって嘆いていることこそ、白玉大姐は望まないと私は思いました。ならば、自分に出来ることを探しに出ようと」
「言い訳をおっしゃるな」
ぴしゃりと言い放ち、縞玉に背を向けた。湖の上の小舟に片足を入れる。
「老師! きっかけは大姐でも、私は気づいたのです」
「何に気づいたと?」
「私は、救いたい。その為に、学びたいのです」
その顔には真剣な色があった。叔母は小舟に乗ったまま振り向く。
「……修業には何年もかかります。終わるまでここを離れることは許しません。それでも?」
「はい」
覚悟を決めた目がまっすぐに見据えている。一瞬、視線が絡み合った。黒瞳の向うはまるで無限に広がる深い暗闇のようだ、と縞玉は思う。
「…私は厳しいですよ」
「元より」
苦笑が微かに混じったようなその答えを受け、再び青年に背を向けて、叔母は少し前へと足を踏み出した。その背が軽く揺れたようである。小舟に出来た空間に、縞玉は足を踏み入れる。細い竿を操って、叔母の館へと舟は動き出した。青年の未来を乗せて。
医術の修行としては通常五年ですが、叔母はそれよりもかなり極めている人なので、免許皆伝までに大体十年くらいを必要とします。
邸そのものは池の真ん中にある島に建てられていて、外敵の侵入を防ぐ構造になっています。厳島神社を思い浮かべて頂くといいかも知れません。潮の満ち干きは無関係ですので水はなくなりませんが。




