第5話 お湯を惜しまない夜
レオンの仕事は、印をつけることから始まった。
欠けた歯車。緩んだ留め具。軸が引っ掛かる場所。
触って確かめたところへ白い線を引き、図へ書き写す。するとブラムが印を一つ消した。
「そいつは後でいい。こっちが先だ」
指された支えを覗き込み、レオンは線を書き直した。
直したい順と、直さなければいけない順は違う。
知っていたはずなのに、いざ目の前にすると、手の届く小さな傷から片づけたくなった。
村へ戻る水路は、オルガたちが土をさらっていた。使える区間をブラムが確かめ、ヨナスが傷んだ箇所へ木の樋を渡す。縦穴には新しい足場と綱がつき、上と下に一人ずつ残って合図を取り次いだ。
初日に手を貸さなかった者も、少しずつ加わっていた。
誰も、急にレオンを褒め始めたわけではない。
ただ、昨日帰ってきた七人の顔を見て、今日は自分もやってみる気になったらしい。
「領主様、これは使うか」
折れた鍬の柄が持ち込まれる。
「支えに使えそうです。ヨナスさんに見てもらってください」
次は割れた車輪だった。その次は、どこで拾ったのか分からない曲がった釘。
レオンは釘を受け取った。
持ってきた子どもが、こちらを見上げている。
「ありがとう。使えるか、調べます」
子どもは走って戻り、すぐにもう一本持ってきた。
釘ばかりが、少しずつ増えた。
◇
昼前に、祝福が出なくなった。
最後の留め具へ指を押し当てても、光が続かない。もう一度やろうとしたところで、ミレイユが食事の包みを置いた。
「昼だ」
「ここだけ、あと少し」
「その少しの間に、パンが硬くなる」
元から硬かったが、言わずに受け取った。
壁にもたれ、パンを小さくちぎる。水門の向こうでは、ずっと水の音がしていた。こんな近くにあるのに、村では今日も桶を運んでいる。
「焦っても増えませんね」
「魔力か?」
「はい」
「私も、空腹では剣が重い」
ミレイユはそう言って、自分のパンを食べた。
レオンも続きを噛んだ。何かうまい返事をするより、その方が役に立った。
午後、止めてあった留め具を直した時、指先の感じが変わった。
隣り合う二つの欠けが、同時にはっきりする。
――【手直し】 熟練度2 ――
レオンは、しばらく動けなかった。
「どうした」
「上がりました」
「熱か?」
「祝福の方です」
用意した鉄片を当てる。午前中には何度も位置を変えた箇所が、今は一度でなじんだ。
桶の輪。滑車の金具。縦穴の足場。水門の小さな傷。
一つずつ覚えた感触が、ばらばらではなくなっている。
ブラムがのぞき込んだ。
「これで門ごと直せるか」
「いえ、そこまでは……」
レオンは試しに、大きく欠けた歯へ触れた。
どうにもならなかった。
ブラムは、あっさり頷いた。
「なら予定通りだ。小さい方を頼む」
「はい」
少し落胆したあとで、レオンは補った継ぎ目をもう一度撫でた。
昨日より、うまくできている。
それだけでも十分に嬉しかった。
◇
夕方、試しに水を流すことになった。
村へ向かう溝の手前に、人を置かない。地上へは、まだ水に入らないよう伝えてある。必要な場所へ人をつけ終わってから、操作輪に手を掛けた。
「少しだけ開けます。戻せるところで止めます」
ヨナスとミレイユが頷いた。
三人で押す。
操作輪は重かった。手の皮が引かれ、レオンは一度持ち直した。
向こうで、ブラムが歯車を見ている。
「動いた。そのまま」
きしむ音とともに、水門がわずかに上がった。
最初は泥だった。
黒い水が槽の底へ落ち、木の枝を運ぶ。レオンは思わず肩へ力を入れたが、流れは槽の中に収まっていた。
やがて濁りが薄れ、石底が見えるようになる。
水は村へ向かう溝へ入り、暗い通路の奥へ流れていった。
「そこまでだ」
ブラムの合図で止める。留め具を入れ、少しずつ手を離す。
操作輪は戻らなかった。
レオンは動かない輪を、しばらく見つめていた。
「村を見てこい」
ヨナスに肩を叩かれた。
「でも、ここが」
「わしらで見る。自分で直したんだろ。少しは信用せえ」
ブラムの言葉に、レオンは手を離した。
◇
広場へ着くと、人の背中が並んでいた。
誰かが気づいて、道を空ける。
乾いていた石の溝へ、水が来ていた。
細い流れだ。石の隙間へ染み、溜まり、少しずつ先へ進む。以前の水量を知らないレオンには、多いのか少ないのかも分からなかった。
オルガが、使わなくなった洗濯桶を溝の脇へ出していた。
「これ、割れていなかったんですか」
「割れるほど使う水がなかったのさ」
彼女は桶を置き、それから袖をまくった。
井戸で水をもらっていた少年もいた。今日は空の器を抱えている。
「飲める?」
「まだ確かめてからです。今日は洗う方に使おう」
レオンが答えると、少年は少し考えた。
「じゃあ、母ちゃんの布を洗っていい?」
「うん」
少年は器を抱えたまま家へ駆けた。
レオンは、その小さな背中が戸口へ消えるまで見送った。水を直した、と言っていいのだろうか。門は応急処置だし、流量も足りない。明日にはまた確かめる場所がいくつもある。
けれど今、誰かが使える。
オルガが水をすくった。顔に飛んだしぶきを袖で拭い、笑った。
「冷たい!」
誰かが同じことを言い、別の誰かが「山の水だぞ」と答えた。
昔から水があった時には、きっと交わしていたのだろう。どうでもいい話が、広場に戻ってきていた。
バルドが帳面を閉じる。
「レオン様」
初めて名前で呼ばれた。
「こちらへ。書く前に、自分の目で見ておいてくれ」
レオンは頷いた。
◇
夜、集会所へ木の盥が運ばれてきた。
中から湯気が立っていた。
オルガともう一人の女が、肩で息をしている。かまどで順に湯を沸かし、子どもや年寄りから体を拭かせているという。
「水門の連中の分も取ってあるよ。帰ってきたら、使わせな」
言われるより先に、ヨナスが戸口へ現れた。
「確認は済んだ。交代も置いたぞ」
ブラムがその後ろで、靴についた泥を落としている。
二人の顔を見てから、レオンは盥へ向き直った。
「こんなに使っていいんですか」
「だから沸かしたんだろ」
オルガが乾いた布を渡した。
衝立の向こうで外套を脱ぎ、布を湯へ沈める。絞って首に当てると、思わず息が漏れた。
耳の後ろにも、髪の生え際にも、土が入り込んでいた。拭うたびに布が汚れる。それをまた湯へ入れることに、少しためらいがあった。
「替えの水もあるよ」
衝立の外から声がした。
レオンは、もう一度布を浸した。
何も言われなくても水を惜しむ癖が、たった数日でついていたらしい。
そのあと、屋根の残った一角へ寝具を敷いた。
ヨナスが窓の内側を塞ぎ直してくれたので、隙間風はない。寝具は昼の間に火のそばで乾かしてもらっていた。建物の外から見れば、相変わらず古びた集会所だ。
レオンは靴を脱ぎ、足を伸ばした。
これだ。
立派な館でなくていい。雨に濡れず、体がきれいで、横になった時に肩の力が抜ける。それなら古い家でも、十分にいい家だった。
隣の部屋で、明日の水くみの順番を相談する声がする。途中から、空いた時間に何を洗うかという話に変わった。
レオンは工具箱の蓋を閉じた。
明日のことは、明日の朝に考えよう。
布団を引き上げると、乾いた布の匂いがした。
誰かに礼を言わなければ、と思ったところで、眠っていた。




