幕間 護送報告に書かなかったこと
護送完了。
報告書の最初にそう書いて、私は筆を置いた。
伯爵家から預かった次男は、グレイフェルへ無事に着いた。途中、馬車の故障が一度。怪我人なし。到着後の領内状況は、本人の報告書を別添。
そこまでなら、いつもの仕事だった。
依頼人を届け、金を受け取り、次の仕事を探す。
最初に会った時も、そのつもりでいた。
礼儀は正しい。体は細い。荷物に本が多い。
剣を振るって守る側ではなく、こちらの後ろへ隠れてもらう相手だと思った。実際、馬車の下から出てきた時には指を震わせていたし、石を運ぶ手つきも危なっかしかった。
ただ、できないことを隠さなかった。
そこだけは、扱いやすかった。
兵をしていた頃、分かっていないのに頷く上官がいた。皆が見ている前では、なおさら分からないと言えなくなる。あとで困るのは、前を歩く者だ。
あの若い領主は、地下で帰り道が塞がれた時にも「直せない」と言った。
頼りになる返事ではなかった。
だからこそ私は、別の出口を探す方へすぐに頭を切り替えられた。
机の端に、修理した革帯があった。
今朝、レオンが差し出してきたものだ。古い留め具の小さな割れを塞ぎ、布で拭いてある。
「昨日、綱を持ち上げた時に気になって。勝手に触ってすみません」
借りていた作業台の端に置かれていたので、先に直してしまったのだという。
いや、直っているならその方がいい。
私はそう答えて受け取った。
困っていないふりをしていただけで、旅先では替えを買う店もなかった。ベルト穴を一つずらして使う手間が、もうない。
報告書へ一行、足そうとしてやめた。
これは伯爵へ知らせる話ではない。
◇
台所で、オルガが鍋を洗っていた。
水を使う手が、昨日までより大きい。底へこびりついた麦を、慌てずに落としていた。
「帰るのかい」
「契約は終わる」
そう答えると、彼女は頷いた。
「あの子には言った?」
「分かっている」
「分かってることと、寂しくないことは別だからね」
誰の話なのか聞こうとしたら、鍋がこちらへ向いた。
「悪いけど、拭いてくれるかい」
乾いた布を取った。
騎士団でも、鍋を洗うことはあった。野営では階級より空いている手の方が大事だ。
布で水気を拭い、棚へ戻す。鍋の底に古い焦げ跡が残っていた。何度も手入れして使ってきたものなのだろう。
「あんた、朝は何を食べる?」
「ある物でいい」
「聞いた相手が、悪かったね」
オルガは笑った。
食べたい物を聞かれたのは、久しぶりだった。
少し考えて、答えた。
「汁があれば」
「分かった。冷める前に来な」
◇
レオンは、窓のそばにいた。
書きかけの点検表を前に、片方の袖を裏返している。洗ったばかりの指で土のついた袖をつかみ、困った顔をしていた。
「脱いでから直せばいい」
「着替えを向こうの部屋へ置いてしまって」
ついでに持ってきた上着を渡すと、礼を言われた。
そこで、仕事の話をした。
「護送の報告を送る。延長した二日分は、これで終わりだ」
レオンは筆を置いた。
「ありがとうございました。代金はバルドさんに預けています」
「受け取った」
「明日は、気をつけて」
引き止められるかと思っていた。
少し拍子抜けしたあと、それは自分が勝手に待っていた言葉なのだと気づいた。
「護衛は、どうする」
「父へ頼みました。それまで、夜の見張りは村の人と相談します。地下の作業も、準備ができるまでは進めません」
答えは、考えてあった。
大丈夫だとは思えなかった。けれど、私がいなければ何もできないわけでもない。
そうでなければ、仕事を引き受ける気にはなれなかっただろう。
「ひと月なら、ここで働ける」
レオンが顔を上げた。
「あなたが、ですか」
「他に誰がいる」
「いえ。ありがたいんですが、伯爵家の依頼は」
「終わった。今度はお前と契約する」
口に出してみると、思っていたより簡単だった。
「条件がある。危険だと判断した現場は止める。見張りを私一人に任せない。休む日も決める」
「もちろんです」
「すぐに頷くな。払える額も確認しろ」
レオンは席を立ち、バルドを呼んだ。
三人で金額と役目を書き、休みを決めた。私も小さな部屋を借りることになった。宿代は給金から引く。
「窓の内側は、明日塞ぎます」
レオンが言った。
「雨漏りは?」
「そこは大丈夫です。ブラムさんに見てもらいました」
私は契約書へ署名した。
領主が気に入った、と言うほど、まだ相手を知らない。村が安全になったわけでもない。
それでも、困ったと言える相手で、直したものを翌日も使っている場所だった。
ひと月働いてみる理由にはなった。
◇
夜、見張りを引き継いで部屋へ戻った。
寝台は狭いが、揺れない。鎧を下ろし、直った革帯を椅子へ掛ける。力を込めずに留め具が外れた。
窓の向こうで、水が流れていた。
最初は、その音に何度か顔を上げた。人の足音と紛らわしかったからだ。
そのうち、聞き分けなくなった。
私は毛布へ足を入れ、明朝の汁のことを考えた。
何の汁かは、聞いていなかった。
それも、起きてからでよかった。




