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第2話 領主様より役に立つ桶

「取水口はある」


 バルドは答えた。


「だが、行くだけ無駄だ」


「無駄かどうかは、見てから決めます」


「前の領主も、似たようなことを言った」


 足が止まりかけた。


 何を言っても、前の誰かと比べられる。その誰かが残したものは、あの壊れた家々なのだ。


 レオンは工具箱を持ち直した。


「では、案内だけでも」


「そのつもりだ。何も知らずに山へ入られては、捜す手間が増える」


 老人は杖をついて歩き出した。


 広場には井戸があった。


 十人ほどが器を持って並んでいる。水をくむ女は袖を肘までまくり、引き上げた桶を台へ載せた。太い腕に、濡れた綱の跡がついていた。


「オルガ。新しい領主だ」


 バルドに紹介されても、女は手を止めなかった。


「そうかい」


 それから桶の縁を指で押さえた。


 水が漏れていた。


 木の板と板の間から、細い筋が台へ落ちる。彼女は小さな受け皿を置き、その水も器へ戻した。


 列の先頭の少年が、つま先立ちになった。


「母ちゃん、今日は多めにって」


「熱は?」


「まだある」


 オルガは自分の器から、少しだけ足してやった。


「走るんじゃないよ」


 少年は頷いて去った。


 井戸の水は白く濁っていた。父の屋敷なら馬車の泥を洗う水にさえ文句が出そうな色だ。少年はそれを、こぼさないよう両手で抱えている。


「その桶を、見せてもらえませんか」


 オルガの手が止まった。


「代わりがあるならいいよ。こいつが最後だ」


 レオンはすぐに返事ができなかった。


 見るだけなら、と言いかけて飲み込む。最後の道具を知らない若者へ渡す不安は、もっともだった。


「ひとまず配り終わるまで待ちます。井戸の縁も、外側から確かめたいんですが」


「石なら好きにしな。水へ何か入れるんじゃないよ」


 レオンは頷いた。


 石組みへ手を当てる。指の届く範囲に、欠けと、ずれ。少し位置を変えると、別の傷が見つかる。


 広い。とても一度には追えない。


「【手直し】」


 薄い光が走った。


 石の尖った欠けが、小指の爪ほど埋まる。


 井戸には、何も起きなかった。


 ――【手直し】 熟練度1 ――


 視界の隅に、祝福式のあとにも見た文字が浮いた。


 次までいくつ、と書いてくれればいいのに。そういう気の利いた説明はない。


「終わりかい」


 レオンは立ち上がった。


「今ので直せるのは、これくらいです」


 オルガが欠けへ顔を寄せた。


「顔を近づけんと分からんね」


「俺も、そこは不満です」


 後ろで、誰かが短く笑った。


 オルガは笑わなかったが、配り終わった桶をレオンの前へ置いた。


「じゃあ、まずはこれを頼もうか。井戸より小さい」


     ◇


 桶を逆さにすると、漏れていたところが分かった。


 外側の鉄の輪に古い亀裂があり、木の板を十分に締められなくなっていた。レオンは底の傷にも触れたが、そこは浅かった。まず輪を直して、水を入れて確かめよう。


 レオンは指で示した。


「ここを締め直せば、漏れが減ると思います」


「火へ掛けるんじゃないよ」


「そこまではしません。木を当てて、少しずつ」


 工具箱から小さな木槌を出す。


 オルガが桶を押さえた。レオンは輪の位置を整え、工具箱に残っていた薄い鉄片を亀裂へ合わせた。


 馬車で使ったものの、切れ端だった。


 指を置く。継ぎ目へ光がにじむ。


 今度は石よりも形が分かる。輪が木を締める。そのために、どこまで隙間を埋めればいいのかも。


 光が消える前に、手を離した。


「水を、少しお願いします」


 オルガは受け皿に取ってあった水を入れた。


 二人で待つ。


 ひとしずく、落ちた。


 レオンは顔を寄せた。外側に残っていた水だろうか。それとも、駄目だったのか。


 次は、落ちなかった。


 オルガが桶を傾け、戻し、底を撫でた。


「……止まったね」


 たったそれだけだった。


 歓声も、拍手もない。


 女は濡れていない台を見て、肩から力を抜いた。


「受け皿を持って、あとを追わなくて済むよ」


 レオンは自分の指へ目を落とした。爪の間に、黒い汚れが入っていた。


 爪でこすっても取れない。もう片方の手にも同じ汚れがついて、レオンは少し笑った。


「では次に、井戸を――」


 屈みかけた膝が、少し頼りなくなった。


 ミレイユが工具箱を足で寄せる。


「座れ」


「まだ大丈夫です」


「座って言え」


 座った。


 桶ひとつで、これだ。


 井戸を七本。水路。それから屋根。


 数え始めると元気がなくなりそうなので、やめた。


「桶の方が、長く働きますね」


「あっちは飯も食わん」とバルド。


「初日に競わせないでください」


 オルガが鼻で笑った。


 今度は、確かに笑った。


     ◇


 西の崖へ着いた時には、夕日が岩の縁へ掛かっていた。


 石組みの入口は瓦礫で半分埋まっていた。奥に分厚い扉があり、上には錆びた滑車と鎖が残っている。


 レオンは扉脇の金具へ触れた。


 軸の小さな摩耗は分かる。だが、扉の向こうまでは分からない。まだ触れてもいない場所を、見たようには言えなかった。


 土を払うと、壁に刻まれた図が現れた。円と、そこから分かれる二本の線。片方には鉱車らしい印がある。


「分水設備ですか」


 バルドが目を細める。


「昔はそうだった。詳しい者は、もう少ない」


 レオンは入口を見上げた。


 瓦礫をどけ、扉を上げるだけでも、一人では無理だ。


「明日、人を集められますか。木や石の扱いに慣れた人が必要です」


「何人集まるかは、知らんぞ」


「俺から頼みます」


 ミレイユが空を確かめた。


「今日は戻る。見るだけという約束だったな」


「はい」


 素直に立ち上がったレオンへ、彼女は少し意外そうな顔をした。


「何ですか」


「もう少し粘るかと思った」


「桶に負けたので」


 彼女は口の端を動かしたが、何も言わなかった。


 集会所へ戻ると、オルガが小鍋を置いていった。


 持参した干し肉を炊事場へ渡しておいたら、麦と煮てくれたらしい。薄い汁だったが、湯気はちゃんと温かかった。


 レオンは両手で椀を包んだ。


「お代は、後で――」


「桶の分だよ。明日からは勘定する」


 オルガは空の盆を脇に抱え、戸口へ向かった。


 口へ運ぶと、干し肉の塩気がした。


 おいしい。


 昼から何も食べていなかったことを、ようやく思い出した。


 戸口で、オルガが足を止めた。


「あの桶、さっきもう一度使ったよ。最後まで漏れなかった」


 レオンは椀を下ろしかけた。


「輪がずれていないか、あとで確認を――」


「明日でいい。今は食べな」


 言い残して、彼女は帰っていった。


 レオンはしばらく、閉じた扉を見ていた。


 前世でも、礼を言われたことはある。けれど仕事が終われば次の現場へ向かい、直した物がそのあとどう使われているかまでは、なかなか見られなかった。


 ここでは、明日もあの桶を見る。


 水を配るオルガも、器を抱えて帰る子どもも。


 レオンはもう一口、汁を飲んだ。柔らかく煮えた麦を噛むうち、強張っていた肩が下がっていく。


 向かいでミレイユが、手紙用の紙を卓の端へ寄せた。


「汁をこぼすぞ」


「食べながら書こうかと」


「どちらかにしろ」


 レオンは紙を遠ざけた。


 外から、薪を割る音がする。椀の底に残った麦をゆっくりすくう。誰も呼びに来なかった。


 ただ食事をしただけなのに、ずいぶん長く休んだ気がした。


 こういう夕方が欲しかったのだと、食べ終わってから思った。


「明日は戻る予定でしたよね」


 向かいに座ったミレイユへ聞いた。


「報告に使う道の確認もある。一日は動かせる」


「地下へ入るところまでは、契約に入っていませんよね」


「明日の作業にはつく。その先の契約は別だ」


 ずっと残ってくれる、という意味ではない。


 それでも明日、一人で扉の前に立たずに済む。そのことに、少し安心した。


 レオンは椀を脇へ置き、紙を広げた。


 父への手紙の書き出しで、しばらく手が止まる。


 結局、短く書いた。


 ――父上。申し訳ありません。俺の見込みが甘かったです。


 そこまで書くと、その先は続いた。


 書き終えた手紙は、明朝バルドが近隣の市へ送る使いに託すことにした。父への便を待つ間の麦も、その市で探してもらう。今持っている金を使うところから、やり直すのだ。

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