第1話 父上の援助、断るんじゃなかった
「領主館は、どちらですか」
「あの丘の上だ」
老人が杖で示した先を見て、レオンは目を細めた。
夕日を受けた石造りの館。広い庭。山を望む窓。
屋根さえあれば、なかなかよさそうだった。
「向こうの山が見えますね」
「屋根が抜けているからな」
「……寝室は?」
「晴れていれば使える」
レオンは幌馬車を振り返った。荷台には衣服と本、それに母の形見の工具箱がある。寝具も積んできたが、家までは持ってきていない。
隣で護衛のミレイユが、空を見上げた。
「明日は降るぞ」
暗い金髪をうなじで束ねた、二十歳の女騎士だった。薄緑色の目が西の雲を追っている。使い込まれた革鎧の肩には旅の埃が積もり、長剣の鞘には細かな傷があった。
出会って十二日になるが、この人の悪い予報はよく当たる。
「ほかに泊まれる場所はありますか」
「集会所だ。そちらは屋根が半分以上残っている」
半分以上。
その言葉を、頼もしく感じてしまった。
◇
レオン・アルヴェイン、十八歳。
伯爵家の次男である。
灰褐色の髪と灰青色の目は母に似た。背丈と肩幅は、残念ながら兄には似なかった。今日も旅の外套を着ると、父の服を借りた少年のように見える。
前世では、日本のビルで設備管理をしていた。空調を点検し、ポンプの異音を調べ、天井から落ちてくる水の出所を探す。立派な服を着た今でも、雨染みを見るとつい上を見てしまう。
故障を見つける仕事は、嫌いではなかった。原因が分かって機械が動き出すと、帰り道の足まで軽くなった。
その帰り道で、電話が鳴ることさえなければ。
休日にも呼ばれ、食事は冷め、翌月の勤務表を見て休む日を探す。そういう毎日を送った末に前の人生が終わり、気づけば伯爵家の赤ん坊になっていた。
今度は、ちゃんと休もう。
欲しいのは小さな家と、温かい食事。午後には椅子で本を読み、眠くなったら眠る。母が元気だった頃、庭の木陰でそうしていたように。
母セレナは、レオンが十歳の冬に亡くなった。残った父と兄には、大切に育ててもらった恩がある。だから、家の仕事をするつもりはあった。
ただし、できれば少なめで。
その願いに、授かった祝福まで寄り添ってくれた。
名は【手直し】。
説明は、破損した物品を、わずかに修復する。
祝福式では、後ろの貴族に笑われた。
「椅子の脚でも直すのか」と。
レオンとしては、それも悪くないと思った。椅子を直したからといって、普通は隣国との戦場へ送られたりしない。
ただ、兄は笑った連中を見ていた。
「何人覚えました?」
「何の話だ」
「顔です」
「覚えていない」
そう答えたエドガーは、六歳年上の近衛騎士だ。昔から、弟に隠し事をする時だけ返事が早い。
父グラウスも、祝福を理由にレオンを責めることはなかった。
むしろ三日後、机へ並べられた役職の候補は、どれも条件がよかった。
「徴税補佐には私の腹心をつける。倉庫監督なら新しい官舎がある。別邸の会計係も、お前なら務まるだろう」
レオンは書類をめくった。
巡回。夜間立会い。宴席の精算。
どこかで見た予定表だった。
「父上。別の希望でも、よろしいでしょうか」
持参した地図の隅を示す。
グレイフェル。伯爵領の北西端にある、元鉱山町。
「ここを任せていただきたいんです」
「水路が傷み、税収もない。昨年も麦を送った土地だぞ」
「はい。台帳を読みました」
横にいた兄が身を乗り出した。
「読んだ上でそこにしたのか?」
「目立たない場所ですし、腰を落ち着けて仕事ができるかと」
「仕事、の前に別の言葉を省いていないか」
のんびり。
兄にはよく見抜かれる。
それでも父は、最後には希望を聞いてくれた。自分から役目を選んだことを、少しは喜んでくれたのかもしれない。
ただし、援助は金貨百枚。必要な人員も連れていくこと。
そこで、レオンは遠慮した。
「二十枚で始めさせてください。足りなければ相談します」
「魔物を間引くにも、冬の麦を買うにも金が要る。百枚で十分とも限らん」
伯爵領には、ほかにも守る村がある。国境の兵にも金が掛かる。それくらいは分かっていた。
台帳にあったのは、前年の収穫量と援助の記録だった。そこにはまだ、畑の収穫も井戸の水もあった。住民の暮らしはどうにか続いていて、新しい領主が少しずつ手を入れればいいのだと、レオンは受け取った。
だから、自分の支度に回す金は少なくていいと考えた。
金貨一枚は、前世の感覚なら十万円ほど。二十枚なら二百万円。住む場所があり、贅沢をしなければ、しばらくは困らない。
修繕費も雇い賃も、見積もっていなかった。田舎だから何でも安いだろうと、それらしい計算を途中でやめていた。
帳簿係と薬師見習いの同行も断った。小さな村へ大勢で行くより、必要になったら現地で雇う方がいいと思った。
父が最後まで譲らなかったのは護送役だった。現状を見たらすぐ報告すること、必要な援助は改めて送ることを、念を押された。ミレイユの契約は、送り届けたのち帰還して報告するところまでだ。
そして出発の朝、兄がこっそり七枚の金貨を握らせた。
「父上から頂いています」
「これは私の金だ」
使い込まれた革袋だった。
「困る前に連絡しろ。困ってからだと、お前は手紙を書く暇までなくす」
大げさだと、その時は笑った。
◇
「共同倉庫の麦は十二日分だ」
バルドと名乗った老人が、帳面を開いた。
グレイフェルの書記だという。白髪は短く、上着の肘には色の違う継ぎが当たっていた。杖を使っているのに、視線だけは少しも頼りなくない。
「人口は三百十二。井戸は七本のうち六本が枯れ、最後の一本も濁り始めた。北の森には灰狼。初雪までは長くて百日」
レオンは城門の内側を見た。
道幅だけは広い。かつては鉱石を積んだ荷車が往来したのだろう。今は石の隙間に草が生え、板で塞がれた窓が並んでいる。
家の前で、二人の子どもが小枝を拾っていた。
片方の袖が短い。手首が赤く荒れている。
「それで、何を持ってきた」
バルドに聞かれた。
金貨と、着替えと、本と、工具箱。
口に出す前に、父の声が蘇った。
百枚で十分とも限らん。
「父上の援助、断るんじゃなかった……」
こぼれた声を、ミレイユは聞かなかったふりをした。
叱られた方が、まだましだった。
自分が住む土地なのだとばかり思っていた。先に暮らしている人たちが、冬を越せるかも分からずに待っているとは、数字を読んだだけでは分かっていなかった。
手を伸ばしかけて、やめる。
持参した金を今ここで配ればいいわけでもない。次の麦をどこで買うのか。薬は何が必要なのか。聞くことから始めなければ、また間違える。
「父へ援助を頼みます。必要な物を書き出すのを、手伝ってください」
「長い手紙になるぞ」
「省かずに書きます」
バルドは頷き、帳面に挟んだ幾枚もの紙を抜いた。
その脇を、桶を抱えた女が通った。数歩ごとに持ち替え、腰を伸ばしている。道沿いには乾いた水路があった。
水が通れば、あの人は歩かずに済むのだろうか。
レオンはしゃがんで、溝の石へ触れた。
指先に、小さく欠けた輪郭が返ってくる。
それだけだ。上流まで見えるわけでも、水を生み出せるわけでもない。
馬車の修理でもそうだった。八日目に車軸の亀裂を見つけたが、直せたのは補強に使う金具の小さな割れだけ。添え木を削り、荷を下ろし、車体を持ち上げたのは三人の手だった。
それでも、次の宿場までは走れた。
「この水路の取水口は、残っていますか」
レオンは立ち上がり、馬車から工具箱を取った。
母がくれた持ち手は、掌の形に擦れている。
のんびり暮らしたい。
けれど水も食べ物も足りない場所では、自分の昼寝どころではない。まず、ここを暮らせる村にしなければ。
城門の下で、靴底にかすかな震えを感じた。
馬は止まっている。
遠くで、重いものが一度だけ回ったような音がした。
レオンは足元を見たが、石畳には何の変化もなかった。




