奴隷少女 第四幕
リナがいなくなってから、俺は一人で旅を続けた。
金はほとんど持っていかれた。
正確には少し残っていた。
宿代と数日分の食費くらい。
全部持っていかなかったのは、リナなりの情けだったのかもしれない。
そう考えて、腹が立った。
「情けってなんだよ」
一人で呟く。
当然、返事はない。
一人旅は静かだった。
以前はそれが普通だったはずなのに、妙に静かに感じる。
朝、誰も起こしに来ない。
地図を間違えても指摘する奴がいない。
野営では自分で飯を作る。
久しぶりに作ったスープは、本当に味がしなかった。
「……まずいな」
リナの言っていた通りだった。
余計に腹が立った。
◇
金がないので、すぐに仕事をする必要があった。
次の街で冒険者ギルドへ行き、魔物討伐を一件受けた。
翌日には終わった。
報酬を受け取り、宿へ向かう。
以前と同じ生活に戻っただけだ。
そう思っていた。
「おい、酒が遅えぞ!」
宿の一階にある酒場で、男の怒鳴り声がした。
見ると、冒険者らしい男が給仕の少年を睨んでいる。
「申し訳ありません。すぐに――」
「さっきからそればっかりじゃねえか!」
男が少年の頭を叩いた。
軽くだ。
怪我をするほどではない。
少年も反抗しない。
「申し訳ありません」
もう一度頭を下げ、厨房へ走っていく。
俺は男を見る。
嫌な奴だ。
以前なら、それだけで終わっていたと思う。
この世界にはこういう人間もいる。
どこの世界でも同じだ。
そう考えていた。
だが、今回は少し気になった。
男の仲間は誰も止めない。
周囲の客も気にしていない。
店主ですら何も言わない。
しばらくして酒が運ばれてくる。
「遅えよ」
男が言う。
「すみません」
「次はさっさと持ってこい」
「はい」
それで終わった。
誰もおかしいと思っていない。
◇
翌日、市場へ行った。
保存食を買う。
「銀貨一枚と銅貨三枚だ」
「分かった」
金を払おうとすると、横から声がした。
「高えよ」
冒険者らしい男だった。
俺が買おうとしていたものと同じ袋を持っている。
「昨日は銀貨一枚だっただろ」
「今日は仕入れが高かったんだ」
「知らねえよ。一枚にしろ」
「いや、しかし――」
男が店主を睨む。
「一枚」
店主は少し黙った。
「……分かりました」
「最初からそう言え」
男は銀貨一枚だけ置いていく。
俺はそれを見ていた。
「兄ちゃんも値切った方がいいぞ」
男が俺に言う。
「言えば安くなる」
「そうみたいだな」
「舐められたら損するぜ」
どこかで聞いた言葉だった。
俺は店主を見る。
「俺はいくら?」
「銀貨一枚と銅貨三枚です」
「分かった」
そのまま払う。
冒険者が笑った。
「お人好しだな」
「そうかもな」
商品を受け取る。
歩きながら考える。
リナも、俺をそう思っていたのだろうか。
◇
意識して見るようになると、似たような光景はいくらでもあった。
街道では、貴族の馬車が来れば平民が道を空ける。
酒場では上位の冒険者が新人に雑用を押しつける。
商人は雇った荷運び人に命令する。
護衛の戦士は農民には横柄なのに、騎士が来ると急に言葉遣いを変える。
もちろん全員ではない。
親切な人間もいる。
使用人に丁寧に接する商人もいる。
弱い冒険者を助ける強い冒険者もいる。
それでも、前世より明らかに強い傾向がある。
強い者が上。
弱い者が下。
それが態度に出る。
そして、そのことを隠そうともしない。
俺は今まで、それを単に、
「この世界はちょっと荒っぽい」
くらいに考えていた。
リナと出会ってからのことを思い返す。
食堂で同じ料理を頼んだ。
別々の部屋を取った。
荷物を持たせなかった。
失敗しても怒らなかった。
文句を言われても殴らなかった。
俺は全部、
「奴隷ではなく一人の人間として扱っている」
つもりだった。
でも、リナにはどう見えていた?
◇
その答えに近いものを聞いたのは、それから数日後だった。
護衛依頼で一緒になった冒険者と、野営中に酒を飲んでいた。
四十歳くらいの男だった。
この世界では珍しく、話しやすい。
「お前、変わってるな」
また言われた。
「よく言われる」
「腕は化け物みてえなのにな」
「そう?」
「今日の魔物、俺なら五人集めるぞ」
「そんなに?」
「お前、本気で言ってんのか?」
「俺には普通だった」
男が笑う。
「それでその態度だから、余計に気味悪いんだよ」
「どういう意味?」
「普通、強い奴はもっと偉そうにする」
「なんで?」
「強いからだろ」
答えになっていない。
「強かったら偉そうにしていいの?」
「いい悪いじゃねえよ。そういうもんだ」
男は酒を飲む。
「俺だって新人の頃は先輩に殴られた。今は俺が若い奴を叱る。貴族は平民より偉い。主人は奴隷より偉い。強い奴は弱い奴より偉い」
「俺のいたところじゃ、そういうのは嫌われた」
「変な国だな」
「そうかも」
俺は焚き火を見る。
聞いてみた。
「もしさ」
「ん?」
「奴隷を買った男が、その奴隷を一度も殴らなかったら、どう思う?」
男が俺を見る。
「なんだ急に」
「いいから」
「そうだな……」
少し考える。
「女か?」
「まあ」
「惚れてるんじゃねえの?」
「そうじゃなかったら?」
「だったら、気が弱いんだろ」
胸に何かが引っかかった。
「気が弱い?」
「奴隷にすら強く出られねえってことだろ?」
「でも、その男がものすごく強かったら?」
「強いなら、なんで奴隷に遠慮するんだよ」
「遠慮じゃなくて、殴る必要がないと思ってるだけかもしれない」
「同じだろ」
「違うよ」
「何が?」
言葉に詰まった。
男は不思議そうに俺を見る。
「奴隷が口答えしたらどうする?」
「別に」
「命令を聞かなかったら?」
「理由を聞く」
「馬鹿にされたら?」
「腹は立つかもしれないけど、殴らない」
男はしばらく俺を見ていた。
「お前、やっぱり変だわ」
「そうみたいだな」
笑われた。
でも、俺は笑えなかった。
◇
その夜、なかなか眠れなかった。
リナの言葉を思い出す。
『馬鹿なの?』
『料理、下手ね』
『そっちじゃない』
俺は嬉しかった。
遠慮しなくなったと思った。
心を開いてくれたと思った。
でも。
もし違ったら?
俺が怒らないから。
殴らないから。
何を言っても平気だから。
だから遠慮する必要がなくなっただけだったら?
「……マジか」
頭を抱える。
思い返せば、いくらでもあった。
俺が重い荷物を持っても、リナは俺が強いと思わなかった。
魔物を倒しても、
『弱い魔物なんでしょ?』
と言った。
三十二人の盗賊を倒したときでさえ、
『なんで殺さなかったの?』
と聞いた。
俺は優しいからだと理解してくれたと思った。
違う。
あいつにとって強い男とは、どんな人間だった?
奴隷商人。
借金取り。
奴隷を買う主人。
おそらく、俺とはまったく違う。
俺が知っている「強い人間」と、リナが知っている「強い人間」は違う。
俺は、
「強いけれど暴力を振るわない」
つもりだった。
でもリナには、
「暴力を振るえない程度の男」
に見えていたのかもしれない。
だから俺を怖がらなくなった。
だから普通に話すようになった。
だから最後には、金を盗んでも大丈夫だと思った。
「……そりゃ、逃げるか」
呟いてから、腹が立った。
「いや、金は盗むなよ」
そこは別だ。
理解できることと、許せることは違う。
俺は今でも腹が立っている。
あの金を稼ぐために仕事をしたのは俺だ。
勝手に持っていっていい理由にはならない。
それでも、一つだけ分かった。
俺はリナに裏切られたと思っていた。
もちろん、金を盗まれたという意味では裏切られた。
でも、
『信頼してくれていたのに裏切られた』
というのは違ったのかもしれない。
最初から、俺が思っていたような信頼関係など存在しなかった。
俺だけがそう思っていた。
◇
翌朝、宿を出るとき、主人に代金を払った。
「銀貨二枚です」
「はい」
銀貨を二枚渡す。
主人が受け取る。
何も変わらない。
市場で食料を買う。
「銅貨八枚」
「分かった」
八枚払う。
これも変わらない。
俺はこれからも金を払う。
店員を怒鳴らない。
奴隷だからという理由で人を殴らない。
気に入らない相手を力で従わせたりもしない。
リナの件があったからといって、それを変えるつもりはなかった。
ただ、一つだけ考え方を変えることにした。
俺が何かをしたとき、それを相手がどう受け取るかは俺には決められない。
俺にとっての普通が、相手にとっても同じ意味になるとは限らない。
この世界に来て三か月。
言葉が通じたから、俺は勘違いしていたのかもしれない。
言葉が通じれば、考えていることもだいたい通じる。
そんな気になっていた。
でも、ここは日本ではない。
服装が違うだけでも、魔物がいるだけでもない。
人が生きてきた社会そのものが違う。
俺はようやく、その当たり前のことに気づき始めていた。




