奴隷少女 終幕
それから、俺は少しだけ生き方を変えた。
といっても、大したことではない。
金は払う。
店員には礼を言う。
気に入らないことがあっても怒鳴らない。
自分より弱い相手を殴らない。
そこは何も変わらない。
ただ、自分が弱いからそうしているのだと勘違いされたとき、それを放っておくのをやめた。
◇
新しい街に着いた日の夜。
俺は宿の一階にある酒場で夕食を取っていた。
パンと豆のスープ、それに焼いた肉。
この世界に来た頃は味が薄いと思っていたが、最近は慣れた。
リナの料理よりはまずい。
そう思ってしまい、少しだけ気分が沈む。
「おい」
声をかけられた。
顔を上げる。
大柄な男が三人立っている。
全員、冒険者らしい。
「そこ、俺たちの席だ」
「そうなの?」
「ああ」
周囲を見る。
席はいくらでも空いている。
「他にも空いてるけど」
「そこがいいんだよ」
「俺、食べてるから」
男の眉が動く。
「どけ」
「嫌だ」
自分でも少し驚いた。
以前なら、
『まあ、別にいいか』
と移動していたと思う。
席にこだわりがあるわけではない。
移動したところで損もしない。
だから譲っていた。
でも今は違う。
俺が譲る理由がない。
「聞こえなかったのか?」
「聞こえたよ」
「だったらどけ」
「だから嫌だって」
酒場が静かになっていた。
周囲の客がこちらを見ている。
男が俺の前まで来た。
「兄ちゃん、俺たちが誰か知らねえみたいだな」
「知らない」
「俺は銀級冒険者だ」
「そう」
「……それだけか?」
「他に何か言うことある?」
男の顔が赤くなる。
まずい。
少し煽ってしまったかもしれない。
別に喧嘩がしたいわけではない。
「俺はただ飯を食いたいだけなんだ」
「だったら席をどけ!」
「それは嫌だ」
「てめえ!」
男が俺の胸ぐらを掴もうとした。
その手首を掴む。
「なっ……」
男の動きが止まる。
力を込めている。
分かる。
でも俺の腕はほとんど動かない。
「離せ!」
「そっちが掴もうとしたんだろ」
「ぐっ……!」
男の顔が歪む。
俺は少し考える。
このまま離してもいい。
でも、それでは以前と同じかもしれない。
「悪い」
「あ?」
「ちょっと飛ぶぞ」
「何を――」
軽く押した。
男の身体が後ろへ飛んだ。
三メートルくらい。
床に転がり、椅子を二つ巻き込んで止まる。
「あ」
少し強かった。
酒場が完全に静かになった。
俺は立ち上がる。
「大丈夫?」
「……」
男は床に座ったまま俺を見ている。
怪我はなさそうだ。
よかった。
残りの二人が動かない。
「まだやる?」
二人が首を横に振った。
「ならいい」
俺は席に戻る。
「店主」
「は、はい!」
「椅子、壊れた?」
「い、いえ。大丈夫です」
「もし壊れてたら俺が払うよ」
「結構です!」
「そう?」
スープを飲む。
冷めていた。
男たちは黙って別の席へ移動した。
俺は少し考える。
これでよかったのだろうか。
喧嘩をしたかったわけではない。
相手を怖がらせたかったわけでもない。
でも、以前の俺なら席を譲っていた。
そして彼らは、
『言えば退く奴』
だと思っただろう。
それ自体は別に構わない。
ただ、この世界では、その認識が次の行動につながる。
もっと要求してもいい。
もっと強く出てもいい。
何をしても抵抗しない。
リナにも、そう見えていたのかもしれない。
「難しいな」
呟く。
近くの客が俺を見たので、黙って食事を続けた。
◇
数日後、商人の護衛依頼を受けた。
街から街へ、三日ほどの道程。
何事もなく目的地に到着した。
「ご苦労だった」
商人が報酬の入った袋を渡してくる。
中を見る。
少ない。
「足りないよ」
「何が?」
「報酬」
「そんなことはない」
「銀貨六十枚って契約だっただろ。五十枚しかない」
商人が顔をしかめる。
「途中、何も起きなかったではないか」
「そうだな」
「戦闘もなかった。それなら五十枚で十分だろう」
以前の俺なら、どうしただろう。
十枚くらいならいいか。
何も起きなかったのは事実だ。
そう考えて受け取ったかもしれない。
俺は袋を机に戻した。
「六十枚」
「だから――」
「契約しただろ」
「何もしていないではないか」
「三日間一緒に歩いた」
「それだけだ」
「護衛って、襲われなかったら仕事してないことになるの?」
「そうは言っていない」
「じゃあ六十枚」
商人の表情が険しくなる。
「若造が。商売というものを知らんのか?」
「知らないよ」
「だったら――」
「でも約束は分かる」
俺は契約書を机に置いた。
「銀貨六十枚。ここに書いてある」
商人が俺を見る。
俺も見る。
怒鳴らない。
脅さない。
ただ待つ。
「……分かった」
しばらくして、商人が奥から銀貨を十枚持ってきた。
「これでいいだろう」
「ありがとう」
数える。
六十枚。
「確かに」
袋を受け取る。
商人が不機嫌そうに言った。
「細かい男だ」
「そうかもな」
「十枚程度で」
「十枚程度なら、最初から払えばよかっただろ」
商人が黙った。
俺は軽く頭を下げて店を出た。
少し気分がよかった。
◇
その足で市場へ行った。
干し肉とパン、それに新しい水筒を買う。
「全部で銀貨一枚と銅貨五枚です」
「はい」
言われた通り払う。
店主が少し驚いた。
「値切らないのかい?」
「高いの?」
「いや、うちとしてはありがたいけど」
「じゃあいいよ」
「旅人は大抵、一枚まで下げろって言うんだ」
「それで売れるの?」
「まあ、売れなくはないがね」
「なら五枚払う」
店主が笑った。
「変わった兄ちゃんだな」
「よく言われる」
商品を受け取る。
以前と同じだ。
俺は今でも、妥当な値段ならそのまま払う。
店主にも生活がある。
俺の方が強いから、安くしろと迫る理由にはならない。
そこは変える必要がない。
変わったのは、相手が俺から奪おうとしたときだけだった。
自分が奪わないことと、相手に奪わせることは違う。
そんな簡単なことを、この世界に来て何か月も経ってから理解した。
◇
それからしばらくして、街道沿いの小さな村に立ち寄った。
食料を補充するだけのつもりだった。
村の入口近くで、怒鳴り声が聞こえた。
「何度言わせる!」
見る。
荷馬車の横で、商人らしい男が若い女を怒鳴っていた。
首に金属の輪がある。
奴隷だった。
「申し訳ありません」
「荷物一つまともに運べんのか!」
女の足元には割れた木箱がある。
中から果物が転がっていた。
「手が滑って……」
「言い訳するな!」
商人が手を上げる。
反射的に歩いていた。
「待って」
商人が振り返る。
「なんだ?」
「殴るの?」
「俺の奴隷だ。お前には関係ない」
その言葉を聞いて、少し前の俺ならどうしただろう。
腹を立てたと思う。
でも、何をすればいいか分からなかったかもしれない。
この世界では合法だ。
俺が正しいと思うことを、力ずくで押しつけていいのか。
そう考えて、迷ったかもしれない。
「その人、売る気ある?」
「は?」
「その奴隷」
女が俺を見る。
商人も俺を見る。
「なんだ、欲しいのか?」
「値段による」
商人の態度が変わった。
「若いぞ。身体も丈夫だ。少々不器用だが――」
「いくら?」
金額を聞く。
高い。
「その値段は高すぎる」
「なら買わなければいい」
「そうする」
俺は引く。
商人が慌てた。
「待て。いくらなら出す?」
交渉する。
以前、リナを買ったときは言われた金額をそのまま払った。
相場を知らなかった。
今回は知っている。
適正な金額を提示する。
商人は文句を言ったが、最終的には了承した。
金を払う。
契約書を受け取る。
「今日からお前のものだ」
その言い方は嫌だった。
でも何も言わない。
今ここで言い争っても意味がない。
商人が去る。
若い女が俺の前に立っている。
怯えていた。
当然だ。
さっきまで殴られそうになっていた。
今度は知らない男に買われた。
前の俺なら、まず安心させようとしたと思う。
『大丈夫』
『怖がらなくていい』
『俺は君を殴らない』
そして、それで伝わると思っていた。
「名前は?」
「……ミアです」
「俺はユウ」
「はい、ご主人様」
「ユウでいいよ」
ミアが戸惑う。
「そんな……」
「まあ、呼び方は好きにして」
「はい」
俺は歩き始める。
ミアが数歩後ろをついてくる。
リナと同じだった。
胸が少し痛む。
◇
村を出てしばらくしたところで、ミアが荷物を持とうとした。
「それ、私が」
「いいよ」
「でも」
「俺が持つ」
ミアの顔に不安が浮かぶ。
俺は気づいた。
以前なら、
『俺の方が力があるから』
とだけ言って終わっていた。
そしてリナには信じてもらえなかった。
ちょうど道端に大きな岩があった。
人間の背丈ほどある。
「ちょっと見てて」
「はい?」
岩の下に手を入れる。
持ち上げる。
片手で十分だった。
ミアの目が大きくなる。
「え……」
岩を元の場所へ戻す。
地面が少し揺れた。
「俺、結構力あるんだ」
「……結構?」
「だから荷物は俺が持つ」
ミアは何度も頷いた。
「はい」
「あと」
俺は少し考える。
何と言えばいいのだろう。
リナとの旅で、自分は一つ学んだ。
言わなくても分かる。
態度を見れば伝わる。
そういう考え方はやめた。
「俺は君を殴らない」
ミアの身体が固くなる。
「でも、それは俺が君より弱いからじゃない」
ミアが俺を見る。
「俺が、そういうことをしたくないからだ」
「……はい」
分かっているのかは分からない。
たぶん、今すぐには分からないだろう。
それでいい。
「あと、嫌なことがあったら言っていい」
「はい」
「文句も言っていい」
「……はい」
「でも俺の金は盗むな」
「え?」
「いや。こっちの話」
ミアが困った顔をする。
俺は少し笑った。
◇
その夜は野営した。
夕食は俺が作った。
スープだった。
ミアは黙って食べている。
「どう?」
「おいしいです」
「本当に?」
「はい」
「無理してない?」
「していません」
怪しい。
一口飲む。
まずい。
味が薄い。
「まずいな」
「い、いえ!」
「いいんだよ。まずいものはまずい」
「でも……」
「前にも言われた」
リナの顔を思い出す。
『味しない』
思わず笑った。
「明日、塩買おう」
「私、料理できます」
「本当?」
「少しなら」
「じゃあ明日からお願いしようかな」
「はい」
ミアはまだ緊張している。
当然だ。
今日会ったばかりだ。
俺がどんな人間なのかも知らない。
俺はもう、
『そのうち心を開いてくれる』
とは考えなかった。
そうなるかもしれない。
ならないかもしれない。
俺を好きになるかもしれない。
嫌いになるかもしれない。
自由にしたら、そのままどこかへ行くかもしれない。
それを決めるのは俺ではない。
◇
焚き火を見ながら、リナのことを思い出した。
今どこにいるのだろう。
盗んだ金があれば、しばらくは暮らせる。
うまくやっているかもしれない。
もう使い果たしているかもしれない。
誰かと暮らしているかもしれない。
分からない。
俺は結局、追わなかった。
あの日、走れば追いつけた。
捕まえることも簡単だった。
それでも追わなかった。
今でも金を盗まれたことには腹が立つ。
あれだけ一緒に旅をしたのに、何も言わずに消えたことも寂しい。
でも、追わなかったことを後悔はしていない。
たぶん俺は、この世界に来てから勘違いしていた。
言葉が通じる。
飯を食う。
笑う。
怒る。
家族がいる。
金を稼いで生活する。
だから、この世界の人間も俺と同じだと思っていた。
剣があって、魔物がいて、王様がいる。
それ以外は同じなのだと。
違った。
人間そのものは、たぶんそれほど違わない。
痛ければ嫌だ。
腹が減れば食べたい。
自由になりたい。
大切なものを守りたい。
そこは同じだ。
でも、何を強さと呼ぶのか。
何を優しさと呼ぶのか。
どういう相手を信用するのか。
何をされたら相手を恐れるのか。
そういうものは、生きてきた社会によって変わる。
俺が善意のつもりでやったことが、相手にも善意として伝わるとは限らない。
だからといって、俺がこの世界に合わせて奴隷を殴る必要もない。
店員を怒鳴る必要もない。
弱い人間から金を奪う必要もない。
俺は俺のやり方で生きればいい。
ただ、自分のやり方が相手にどう見えるのかは考える。
必要なら説明する。
必要なら力も見せる。
それでも理解されなければ、仕方がない。
「ご主人様」
声がした。
顔を上げる。
ミアがこちらを見ている。
「どうした?」
「あの……毛布を使ってもいいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
ミアが毛布を取る。
まだ俺に許可を求める。
リナも最初はそうだった。
「ミア」
「はい」
「いちいち聞かなくてもいいよ」
「……でも」
言いかけて、俺は止めた。
また自分の普通を押しつけるところだった。
「いや、いいや」
「はい?」
「慣れるまでは好きにして」
「……はい」
ミアが少し不思議そうな顔をした。
俺は焚き火に薪を足す。
たぶん、これでいい。
俺はこの世界の人間にはなれない。
奴隷がいることを普通だとは思えないし、強い人間が弱い人間を好きに扱っていいとも思えない。
その感覚を捨てるつもりもない。
でも、この世界の人間が俺と同じものを見て、同じことを考えるはずだとも、もう思わない。
リナが教えてくれた。
本人はそんなつもりなどなかっただろうけれど。
「寝るか」
「はい」
俺は地面に横になる。
少し離れたところでミアも毛布にくるまった。
明日になれば、また旅が始まる。
俺はこれからも金を払う。
約束を守る。
弱い相手を殴らない。
必要のない暴力は使わない。
そこは何も変わらない。
ただ、もう一つだけ。
俺が殴らないのは、殴れないからではない。
俺が譲るのは、奪えないからではない。
俺が相手を尊重するのは、相手を従わせる力がないからではない。
それくらいは、必要なら相手に分かる形で伝えることにした。
世界で一番強い人間が、強さを証明するために誰かを傷つける必要はない。
けれど、強さを隠したままでいなければ善人でいられないわけでもない。
俺はようやく、その二つを分けて考えられるようになった。
焚き火の向こうで、ミアが眠りにつく。
俺も目を閉じた。
この世界に来たばかりの頃より、少しだけ生きやすくなった気がした。




