奴隷少女 第一幕
俺がこの世界に来たのは、三か月ほど前のことだ。
前世では、ごく普通の日本人だった。
仕事をして、休日になれば友人と飯を食い、家に帰れば動画を見たりゲームをしたりする。特別な才能もなければ、世界を変えたいような大志もない。
死んだ理由も特別ではなかった。
事故だった。
横断歩道を渡っている途中で車が突っ込んできた。強い衝撃を受けたところまでは覚えている。
次に目を開けたとき、俺は森の中にいた。
最初は助かったのだと思った。
だが、周囲には見たこともない植物が生えていた。
スマートフォンはない。
財布もない。
着ている服まで変わっている。
そのうえ、森を抜けて最初に出会った男は、腰に剣を下げていた。
言葉が通じたことだけは幸運だった。
どういう理屈なのかは分からない。俺には相手の言葉が日本語のように聞こえるし、俺が話せば向こうにも通じる。
そこから、この世界について少しずつ知った。
王がいる。
貴族がいる。
魔物がいる。
剣と魔法がある。
そして、奴隷がいる。
どうやら俺は、とんでもない場所に来てしまったらしい。
幸いだったのは、俺自身の身体にもとんでもないことが起きていたことだった。
◇
「討伐証明をお願いします」
「ああ」
俺は袋から角を一本取り出し、受付の机に置いた。
冒険者ギルドの受付嬢が、それを見て動きを止める。
「……これ、ブラッドホーンの角ですよね?」
「そうらしいな」
「そうらしいな、って……」
受付嬢は角を持ち上げた。
長さは俺の腕ほどある。
三日前、街の北にある森で仕留めた魔物のものだ。
「お一人で?」
「ああ」
「ブラッドホーンを?」
「そうだけど」
受付嬢は俺を見る。
それから角を見る。
もう一度俺を見る。
「何か問題ある?」
「いえ……ありません」
変な反応だ。
俺はまだ、この世界の魔物の強さがよく分かっていない。
ブラッドホーンというのは、大きな鹿のような魔物だった。名前の通り頭に巨大な角があり、突進してくる。
結構速かった。
ただ、横に避けて角を掴み、そのまま地面に叩きつけたら死んだ。
剣を使う必要もなかった。
「討伐報酬と素材代を合わせまして、銀貨四十二枚になります」
「分かった」
受付嬢が銀貨を数える。
俺も一緒に数えた。
この世界に来た直後は貨幣価値も分からず苦労したが、三か月も暮らせばだいたい分かる。
「四十、四十一、四十二。確かに」
「はい。お疲れさまでした」
「ありがとう」
銀貨を袋に入れる。
後ろから声がした。
「おい兄ちゃん」
振り向くと、三人の冒険者が立っていた。
全員、俺より年上だろう。
装備も立派だ。
「なんだ?」
「ブラッドホーンを一人で倒したって?」
「ああ」
「嘘くせえな」
「そうか?」
別に信じてもらう必要はない。
俺は受付に軽く頭を下げ、その場を離れようとした。
男が前に出て道を塞ぐ。
「待てよ」
「まだ何か?」
「どこかの連中が倒したやつを拾ったんじゃねえのか?」
「俺が倒したよ」
「証人は?」
「いない」
「だったら分からねえだろ」
面倒くさい。
前世にもこういう人間はいた。
もちろん剣を持って絡んでくる奴はいなかったが、本質的には似たようなものだ。
「ギルドが問題ないって言ってるならいいだろ」
「その態度が気に入らねえんだよ」
知らない。
俺は横から通り抜けようとした。
肩を掴まれた。
「おい」
男が力を込める。
たぶん威圧しているのだろう。
俺にはほとんど何も感じない。
この世界に来て最初に気づいた異常は、身体能力だった。
走れば馬より速い。
大きな岩を片手で持ち上げられる。
剣を振れば、鉄製の盾まで斬れる。
最初はこの世界の人間が全員そうなのかと思った。
違った。
俺がおかしいらしい。
「離してくれ」
「あ?」
「肩」
男が笑う。
「嫌だと言ったら?」
俺は少し考えた。
「困る」
「ハッ!」
男たちが笑った。
周囲の冒険者もこちらを見ている。
受付嬢が心配そうな顔をしていた。
俺はため息をつく。
「喧嘩するつもりはないんだよ」
「だったら最初からそう言え」
「今言っただろ」
「兄貴、もういいだろ。行こうぜ」
仲間の一人が言った。
男はしばらく俺を睨んでいたが、やがて肩から手を離した。
「次からは態度に気をつけろよ」
「ああ」
何に気をつければいいのか分からないが、とりあえず答えた。
三人が去っていく。
俺もギルドを出た。
殴ろうと思えば殴れた。
たぶん、軽く殴っただけでも大怪我をする。
だからこそ、殴る理由がない。
向こうも実際に攻撃してきたわけではない。
肩を掴まれただけだ。
それで相手を吹き飛ばす方がおかしい。
俺にとっては、それだけの話だった。
◇
昼食はいつもの食堂で取った。
「肉の煮込みとパン」
「あいよ」
女将が料理を運んでくる。
銅貨六枚。
俺は六枚払った。
隣に座っていた冒険者が笑う。
「また言い値で払ってるのか?」
「六枚だろ?」
「五枚になるぞ。最近肉が安いからな」
「そうなのか?」
「言えばまける」
俺は厨房を見る。
女将が忙しそうに料理を作っている。
「別にいいよ。一枚くらい」
「お前、本当に変な奴だな」
「そうか?」
「金持ちでもないのに値切らねえし、ギルドじゃ絡まれても黙ってるし」
「喧嘩したって得しないだろ」
「舐められるぞ」
「舐められたら何か困るのか?」
冒険者が呆れたように俺を見る。
「お前、腕は立つんだよな?」
「たぶん」
「たぶんってなんだよ」
俺にも分からない。
この世界の強さの基準が、まだよく分かっていないのだ。
魔物を倒して金を稼げているのだから、少なくとも弱くはない。
それで十分だった。
「まあいいや」
冒険者は酒を飲む。
「お前みたいなの、長生きできねえぞ」
「気をつけるよ」
「そういうところだよ」
何がそういうところなのかは教えてくれなかった。
俺は肉の煮込みを食べる。
結構うまい。
この世界は不便だ。
風呂も毎日は入れないし、食事の種類も少ない。
夜になれば街は暗い。
だが、人間は意外と慣れる。
三か月前には絶望していた俺も、今では普通に働いて、飯を食って、宿で寝ている。
このまま冒険者として生きていくのも悪くない。
そう思い始めていた。
少なくとも、自分がこの世界の誰よりも強いことにも、自分の普通がこの世界では少し違って見えていることにも、このときの俺はまだ気づいていなかった。




