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獣人物語 終幕

翌朝、俺は朝食を終えて執務室へ向かっていた。


昨夜はミレーヌと少し遅くまで話していたせいで、いつもより出るのが遅くなった。急ぐほどの仕事はないが、午前中に騎士団から報告を受ける予定がある。


廊下の角を曲がったところで、向こうから豚獣人の女性が歩いてきた。


赤い首飾り。


ミレーヌだ。


昨夜のことを思い出し、俺は少し笑った。


「おはよう」


「おはようございます、あなた」


「昨日はありがとう。久しぶりにゆっくり話せてよかったよ」


相手が足を止めた。


「……はい?」


「なんだ?」


「昨日、ですか?」


妙な反応だった。


俺も足を止める。


「書斎に来ただろう?」


「私が?」


「ああ」


しばらく沈黙が続いた。


目の前の豚獣人が俺を見る。


俺も彼女を見る。


嫌な予感がした。


「あなた」


「なんだ」


「私、セレスですけれど」


頭の中が真っ白になった。


視線を首元へ落とす。


赤い首飾り。


「……その首飾りは?」


「ああ、これですか?」


セレスが何でもないことのように宝石へ触れた。


「昨日、お姉様からお借りしたのです。今度の夜会で赤いドレスを着ようと思っているのですが、どんな宝石が合うか試したくて」


終わった。


俺が二十年以上かけて構築してきた識別システムが、あまりにも簡単に破られた。


「あなた?」


「いや、待ってくれ」


「何をです?」


「少し考えさせてくれ」


昨夜の記憶を確認する。


書斎に来た。


昔の話をした。


俺にどうして自分を選んだのかと聞いた。


安心するからだと答えた。


最後には腕を組んで寝室へ向かった。


間違いなくミレーヌだった。


赤い首飾りもつけていた。


つまり昨夜はミレーヌ。


今朝はセレス。


そこまではいい。


問題は、宝石が入れ替わっただけで俺には区別できなかったことだ。


「どうなさいました?」


セレスが顔を近づけてくる。


豚だ。


やはり分からない。


第一夫人と第四夫人。


世間では二人とも美女だが、顔立ちはかなり違うらしい。


以前セレス本人から、


『私とお姉様なんて全然似ていないでしょう?』


と言われたことがある。


俺は、


『もちろん』


と答えた。


嘘だった。


まったく分からない。


「あなた、もしかして……」


心臓が跳ねた。


まずい。


ついに気づかれたか。


俺は覚悟を決めた。


長年隠してきたことだが、いつかはこういう日が来ると思っていた。


セレスが俺をじっと見る。


「私たちを、宝石ではなく仕草で見分けているのですか?」


「……え?」


「だってそうでしょう?」


何がそうなのか分からない。


「お姉様と私はよく似ていると言われます。でも、あなたは私たちをほとんど間違えない」


初耳だった。


似ているのか。


それなら俺が分からなくても仕方がないのではないか。


一瞬そう思ったが、たぶんそういう問題ではない。


「なのに、今日は私がお姉様の首飾りをしていたから、いつもと様子が違った」


セレスは自分で納得するように頷く。


「宝石だけで判断しているのなら、私をお姉様と間違えるはずですものね」


間違えた。


完全に間違えた。


「でも、あなたはすぐに何か違うと気づいた」


気づいていない。


あなたがセレスだと言うまで、完全にミレーヌだと思っていた。


「なるほど……そういうことだったのですね」


何がだ。


俺にも教えてほしい。


「あなたは私たちの歩き方や声、仕草まで覚えてくださっているのね」


「……まあ」


ここで否定したらどうなる。


俺は考えた。


正直に、


『いや、宝石で見分けている』


と言う。


次に、


『実は顔の違いもよく分からない』


と言う。


そして最後に、


『君もミレーヌも俺にはほぼ同じ豚に見える』


と言う。


駄目だ。


絶対に駄目だ。


「そんなところだ」


俺は答えた。


セレスの顔が明るくなる。


「まあ!」


「いや、そんなに大したことじゃない」


「大したことです!」


セレスが嬉しそうに俺の腕を取った。


「お姉様にも教えて差し上げなくては」


「待て」


「どうして?」


「言わなくていい」


「照れていらっしゃるの?」


「そういうわけじゃない」


「分かりました。内緒にしておきますね」


絶対に内緒にしない顔だった。


獣人の細かな美醜は分からない俺でも、そのくらいは分かる。



昼には妻全員が知っていた。


夕方には使用人の大半が知っていた。


三日後には親戚から、


『妻を大切にするのはよいが、少々惚気が過ぎるのではないか』


という手紙が届いた。


どういう経路で広まったのかは考えないことにした。


さらに一週間後、社交界で妙な話が流行していることをミレーヌから聞かされた。


「あなたは宝飾品ではなく、妻たちの声や歩き方、ちょっとした癖で私たちを見分けているそうですわね」


「……誰から聞いた?」


「皆さんご存じですよ」


皆さんとは誰だ。


「それで最近、貴族の奥様方の間で話題になっているそうです」


「何が?」


「理想の夫として」


頭が痛くなった。


「俺が?」


「ええ。十人もの妻がいるのに、一人一人の仕草まで覚えているなんて素敵だ、と」


完全な誤解である。


「それで、また縁談が来ています」


「断ってくれ」


「まだ何も言っていませんよ?」


「どうせそうなると思った」


ミレーヌが楽しそうに笑う。


「今回は五件です」


「全部断る」


「お相手も聞かずに?」


「十一人目はいらない」


「本当に欲がありませんね」


「十人いれば十分だろ」


「普通はそうかもしれませんけれど、あなたですから」


その「あなたですから」が嫌だった。


俺は机の上に置かれた手紙を見る。


五通。


猫、狐、狼、熊、犬。


肖像画まで同封されているものがある。


俺は一枚だけ手に取った。


若い猫獣人の女性が描かれている。


かなりの美女らしい。


分からない。


猫だった。


俺は肖像画を戻した。


「断ってくれ」


「分かりました」


ミレーヌは慣れた様子で手紙をまとめる。


「でも、少しもったいないですね」


「何が?」


「皆さん、お綺麗な方ばかりですよ」


「そうなのか」


「あなたは本当に女性の容姿に興味がありませんね」


俺は笑って誤魔化した。


興味がないわけではない。


分からないだけだ。



その夜、俺は一人でバルコニーに出た。


眼下には領都の明かりが広がっている。


前世の都市ほど明るくはない。


電灯はないし、高層ビルもない。


それでも夜の街には灯りが点々と続き、酒場の前を歩く人の姿も見える。


平和な街だ。


この世界に生まれて、長い年月が経った。


悪い人生ではなかった。


いや、悪いどころではない。


俺は恵まれている。


大貴族の家に生まれた。


金に困ったことはない。


食べ物にも困らない。


健康で、身体も丈夫だ。


戦えばほとんど負けない。


領民からも慕われている。


友人もいる。


家族もいる。


十人の妻がいて、子供たちもいる。


妻たちとの仲も悪くない。


隣国との外交では相手国最強の戦士を一撃で吹き飛ばし、向こうの王女から求婚された。


魔獣が出れば一人で倒せる。


この国では強さが最大の魅力だから、街を歩くだけで女性から声をかけられることもある。


前世の俺が今の俺を見たら、どう思うだろう。


おそらく羨ましがる。


異世界に転生して、貴族になって、最強になって、美女に囲まれて暮らしている。


物語なら、これ以上ない成功者だ。


俺自身、自分が不幸だとは思っていない。


だからこそ、この悩みを誰にも言えなかった。


俺には、お前たちの顔の違いがよく分からない。


そんなことを、どうやって妻たちに言えばいい。


王国一の美女と呼ばれるミレーヌに、


『俺には君が普通の豚獣人にしか見えない』


などと言えるはずがない。


彼女が悪いわけではない。


この世界が悪いわけでもない。


おかしいのは俺の方だ。


俺だけが、別の世界の美しさを覚えている。


ふと、前世のことを思い出した。


人間の女性。


黒い髪。


白い肌。


丸い耳。


平らな顔。


そういうものを、俺は昔、美しいと思っていた。


では、具体的にどんな顔だっただろう。


思い出そうとした。


前世で好きだった女優がいた。


名前は覚えている。


テレビで何度も見た。


顔も当然覚えていたはずだ。


目を閉じる。


輪郭を思い浮かべようとする。


できなかった。


「……あれ?」


もう一度試す。


髪型は何となく分かる。


声も少し覚えている。


でも、顔が出てこない。


母親は。


同級生は。


学生時代に好きだった女の子は。


どれも曖昧だった。


無理もない。


この世界に生まれてから、前世で生きた年月と同じくらいの時間が過ぎている。


俺が毎日見ているのは獣人の顔だ。


人間の顔など、この世界には存在しない。


昔は鮮明だった記憶が、少しずつ薄れている。


なのに、不思議なことに美的感覚だけは残っていた。


人間の顔を正確には思い出せない。


それでも獣人を見て、美しいとは思えない。


「面倒なもんだな」


誰に聞かせるでもなく呟いた。


少し笑った。


笑うしかない。


「あなた?」


後ろから声がした。


振り返る。


狐獣人の女性が立っていた。


俺は反射的に首元を見る。


青い石のついた細い鎖。


「エレナ」


「はい」


正解。


エレナが隣まで歩いてくる。


「こんなところで何をなさっているのです?」


「街を見てた」


「寒くありませんか?」


「大丈夫だよ」


エレナが俺の腕に自分の腕を絡めた。


狐の顔が近くにある。


世間的には彼女もかなりの美人らしい。


俺にはやはり分からない。


「今日はお疲れですか?」


「どうして?」


「少し寂しそうなお顔をしていましたから」


「そう見えた?」


「ええ」


俺は少し考えた。


「昔のことを思い出してた」


「昔?」


「子供の頃とか、そういうの」


嘘ではない。


「懐かしいですか?」


「まあね」


エレナはそれ以上聞かなかった。


二人で街を見る。


しばらくすると、彼女が小さく身体を寄せてきた。


温かい。


俺も自然に肩を抱いた。


美しいとは思えない。


でも、大切ではある。


それでいいのだろう。


少なくとも今の俺には、それ以外の答えはなかった。


「そろそろ戻るか」


「はい」


二人で屋敷へ戻る。


廊下の向こうから、今度は豚獣人が歩いてきた。


反射的に宝飾品を探す。


赤い首飾り。


一瞬安心して、それから今朝の出来事を思い出した。


信用できない。


俺は慎重に相手を見る。


歩き方。


声。


仕草。


正直、分からない。


「あなた?」


向こうから声をかけてきた。


俺は賭けた。


「ミレーヌ」


「はい?」


合っていた。


「どうなさいました?」


「いや、なんでもない」


俺は内心で大きく安堵する。


ミレーヌが不思議そうに俺を見る。


隣のエレナは笑っていた。


「あなた、本当にお姉様のことになると表情が違いますね」


「そうか?」


「ええ」


また何か誤解されている。


だが、もう訂正する気にもならなかった。


俺は二人の妻と一緒に廊下を歩く。


たぶん、他人から見ればとても幸せそうな光景なのだろう。


実際、幸せなのだと思う。


強く、美しく、裕福で、家族にも恵まれている。


十人もの美女から愛される、この国でも指折りの幸せな男。


ただ一つ。


その美女たちが美女であることだけは、最後まで分からない。


俺は今日も妻の宝飾品を確認しながら、幸せに暮らしている。

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