獣人物語 第四幕
キングベア討伐からしばらく経った夜、俺は書斎で領地の報告書を読んでいた。
今年は麦の収穫量が多いらしい。
北部の街道整備も予定より早く進んでいる。キングベアに追われて生息域を移していたグレイボアも、その後は森へ戻った。
平和だった。
こうして領地の報告書を読んでいると、本当に恵まれた国だと思う。
少なくとも俺が生まれてから大きな戦争はない。
飢饉もない。
多少の魔獣被害はあるものの、それも騎士団で十分対処できる範囲だ。
貴族同士の争いも、前世の歴史で読んだ中世社会ほど血なまぐさくない。
転生先としては大当たりだろう。
「まだお仕事ですか?」
声をかけられて顔を上げる。
入口に豚獣人の女性が立っていた。
一瞬、緊張する。
首元を見る。
赤い宝石。
「ミレーヌか」
「……か?」
まずい。
「いや、なんでもない」
ミレーヌが不思議そうな顔をしながら部屋へ入ってくる。
危なかった。
第一夫人ミレーヌ。
王国一の美女。
そして俺が最も見分けるのに苦労している妻の一人である。
「少し休まれてはいかがです?」
「もう少しで終わるよ」
「昨日もそう言って、遅くまで起きていたでしょう」
「そうだったか?」
「そうでした」
ミレーヌは俺の向かいに座った。
俺は報告書を閉じる。
こういうとき、仕事を続けると後で怒られることを経験から学んでいる。
「何か話があるのか?」
「話がなければ来てはいけませんか?」
「いや、そういう意味じゃない」
ミレーヌが笑う。
俺も笑った。
彼女とは長い付き合いになる。
最初は完全な政略結婚だった。
彼女の実家も大貴族で、俺の家との関係を強化するために結婚が決まった。
俺には拒否権がなかったわけではない。
ただ、父から、
『一度会ってみろ』
と言われて会った。
そして困った。
豚だったからだ。
正確には豚獣人である。
もちろん分かっている。
だが前世の記憶を持つ俺には、どう見ても二足歩行する豚にしか見えなかった。
その後、父から感想を聞かれた。
『どうだった?』
『どうって?』
『美しかっただろう』
『……そうなの?』
危うく婚約する前から破談にするところだった。
慌てて、
『緊張していてよく見ていなかった』
と誤魔化した。
後から知ったことだが、ミレーヌは当時から社交界で有名な美女だったらしい。
彼女が舞踏会へ出れば男たちが振り返り、若い貴族が競って踊りに誘った。
肖像画も人気があり、彼女の容姿を称える詩を書いた詩人までいたという。
俺には何一つ分からない。
だが、結婚してみればいい妻だった。
頭がいい。
俺が細かく指示しなくても屋敷を取り仕切ってくれる。
使用人からの信頼も厚い。
妻が増えてからは、彼女たちの間を取り持つ役目まで自然に引き受けてくれた。
子供たちにも優しい。
俺が仕事で失敗したときは慰めてくれるし、間違っていると思えば遠慮なく叱る。
だから俺はミレーヌを信頼している。
おそらく十人の妻の中でも、一番頼りにしている。
「あなた」
「ん?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうした?」
ミレーヌが少し迷ってから口を開いた。
「どうして、私を選んだのです?」
答えに詰まった。
「急にどうした?」
「今日、セレスと昔の話をしていたのです。あなたと結婚した頃のことを」
セレス。
第四夫人。
同じ豚獣人。
青い髪飾り。
よし。
「それで?」
「考えてみれば、あなたは昔から女性にあまり興味を示されませんでしたでしょう?」
「まあ……そうだな」
「当時だって、あなたならいくらでも選べたはずです」
ミレーヌは少し照れたように笑った。
「自分で言うのもおかしいですが、私は容姿には恵まれていたと思います」
「そうだな」
そこは断言しておく。
俺には分からないが、この国の客観的評価では間違いない。
「でも、あなたはそういうことをあまり気になさらないでしょう?」
「そうかもしれない」
ものすごく気にしている。
ただし逆方向に。
「だから、少し気になったのです。どうして私だったのかな、と」
困った。
政略結婚だったから。
最初の理由だけなら、それで終わる。
だが、二十年以上一緒に暮らしている相手に、それだけを答えるのは違う気がした。
俺は考える。
なぜミレーヌと一緒にいるのか。
家同士の都合はもう関係ない。
今さら彼女と別れることなど考えられない。
「安心するからかな」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「安心?」
「ああ」
俺は少し考えて続ける。
「俺は昔から、周りと感覚が違うところがあるだろう」
「ありますね」
即答された。
「そこは少しくらい否定してくれてもいいんじゃないか?」
「だって事実ですもの」
「まあ、そうだけど」
ミレーヌが笑う。
「でも、君といると、それでいいと思えるんだ」
これは本心だった。
「俺が変なことをしても、君は必要なら止めてくれる。俺が分からないことも教えてくれる。家のことも任せられる。何かあったとき、最初に相談しようと思うのはたぶん君だ」
ミレーヌが黙った。
「だから、一緒にいると安心する」
「……そうですか」
「ああ」
「それは、ずるい答えですね」
「なんで?」
「そんなことを言われたら、怒れないではありませんか」
「怒ってたのか?」
「少しだけ」
何に怒っていたのか分からない。
ミレーヌは笑っていた。
たぶん悪い答えではなかったのだろう。
俺も安心する。
「ありがとうございます」
「何が?」
「私を選んでくださって」
そう言って、ミレーヌは嬉しそうに笑った。
俺も自然に笑い返す。
彼女が喜んでいる。
それは分かる。
長年一緒にいるのだから、表情もある程度は読める。
この人と結婚してよかったとも思う。
ただ、その顔を見ながら俺は考えてしまう。
やっぱり分からない。
この国の男たちが詩まで書いて称えた美しさが、俺にはまったく分からない。
目の前にいるのは、どう見ても豚獣人だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
俺はミレーヌが好きだ。
家族として大切に思っている。
信頼もしている。
これから先も一緒に暮らしたい。
それなのに、彼女を美しいと思ったことだけは一度もなかった。
そのことを本人に言うつもりはない。
言って何になる。
俺が少し黙っていると、ミレーヌが首を傾げた。
「どうしました?」
「いや」
俺は赤い首飾りを見る。
「その首飾り、やっぱり似合っているなと思って」
「まあ」
ミレーヌが嬉しそうに宝石へ触れる。
「あなたからいただいたものですもの。一番気に入っています」
「そうか」
「ええ」
少しだけ胸が痛んだ。
その首飾りを贈った本当の理由は、彼女を見分けるためだった。
でも、今では彼女が大切にしているものでもある。
だったら、それでいいのかもしれない。
「そろそろ寝ましょうか」
「ああ」
俺は立ち上がる。
ミレーヌも立ち上がり、自然に俺の腕を取った。
二人で廊下を歩く。
途中ですれ違った使用人が、俺たちを見て微笑んだ。
きっと仲のいい夫婦に見えるのだろう。
実際、仲はいい。
そこに嘘はない。
ただ一つだけ、彼女にも誰にも言えないことがある。
王国一の美女と腕を組んで歩きながら、俺は今日も、その美しさがまったく分からなかった。




