獣人物語 第三幕
隣国との一件から二か月ほど経った頃、領地の北部に魔獣が出た。
この世界で魔獣と呼ばれているものは、前世の感覚でいえば大型の害獣に近い。普通の動物より身体が大きく、力が強く、種類によっては魔力まで使う。
とはいえ、普段は森の奥や山岳地帯に棲んでいるため、人里で暮らしている限り遭遇することはほとんどない。街道にも定期的に兵士が巡回しているし、農村の周囲には柵や簡単な防壁が作られている。
だから俺も、この世界が特別危険だとは思っていない。
前世だって熊が街に出てくれば騒ぎになった。それと似たようなものだ。
問題は、今回は数が多かったことだった。
「二十頭以上?」
「確認できているだけで二十三頭です」
執務室で報告書を読んでいた俺は顔を上げた。
報告に来た騎士が頷く。
「グレイボアの群れです。森に入った猟師が最初に発見しました。通常なら五、六頭程度で行動する魔獣ですので、これほどの群れは珍しいかと」
グレイボア。
名前の通り、巨大な猪のような魔獣である。
成体なら馬より一回り大きく、正面から突進されれば重装備の兵士でも吹き飛ばされる。単体なら騎士数人で対処できるが、二十頭を超えるとなると話は変わる。
「村との距離は?」
「半日の距離です。今のところ南下する様子はありませんが、念のため近隣の村には避難の準備をさせています」
「分かった。騎士団を出そう」
「はっ」
「俺も行く」
騎士が一瞬黙った。
「旦那様自ら、ですか?」
「二十頭以上いるんだろう?」
「ですが、この程度であれば我々だけでも」
「その『程度』で誰か死んだら寝覚めが悪い」
領地を守るのは領主一族の仕事だ。
俺はこの国の強さを尊ぶ文化について、いまだに理解できない部分が多い。しかし、力を持っている人間が危険な仕事を引き受けるという考え方自体は嫌いではなかった。
俺が行けば、少なくとも死者が出る可能性は下がる。
「準備してくれ。昼には出る」
「承知しました」
騎士が一礼して部屋を出ていく。
その日の午後、俺は四十人ほどの騎士を率いて北へ向かった。
◇
翌朝、俺たちは森の手前でグレイボアの群れを発見した。
遠目にも大きい。
黒っぽい毛に覆われた巨大な猪が、木々の間をうろついている。
「二十七頭います」
斥候から報告を受け、騎士団長が地図を広げた。
「こちらとこちらから二隊に分かれ、挟撃するのがよろしいかと。逃げた個体については第三隊を後方に配置して――」
「待て」
俺は森を見る。
何かがおかしい。
グレイボアは確かに多い。しかし、落ち着きがない。
餌を探しているというより、何かから逃げてきたように見える。
「こいつら、なんでこんな場所まで来たんだ?」
騎士団長も黙った。
通常、魔獣が理由もなく生息域を変えることはない。
「森の奥に何かいるのかもしれません」
「だよな」
嫌な予感がした。
その直後だった。
森の奥から、低い音が響いた。
地鳴りのような音だった。
グレイボアたちが一斉に反応する。
「来ます!」
騎士が叫ぶ。
二十七頭のグレイボアが、こちらへ向かって走り始めた。
「防御陣形!」
騎士団長の号令で兵士たちが盾を構える。
「いや、下がれ!」
俺は前へ出た。
「旦那様!」
「こいつらは俺が止める。左右に開け!」
騎士たちが即座に動く。
こういうところはありがたい。俺の命令に疑問があっても、戦場ではまず従ってくれる。
俺は剣を抜いた。
最初の一頭が迫ってくる。
大きい。
牙だけで俺の腕ほどある。
横へかわしながら首を斬る。
一頭。
すぐ後ろに二頭目。
剣を返して前脚を斬り、そのまま頭部へ叩き込む。
二頭。
三頭目は剣ではなく、蹴った。
横から頭を蹴ると、巨体が隣のグレイボアを巻き込みながら転がっていく。
後ろで騎士たちが何か叫んでいる。
聞いている余裕はない。
次。
次。
次。
十頭ほど倒したところで、残ったグレイボアが方向を変えた。
俺を避けて逃げていく。
「追わなくていい!」
俺は騎士たちを止めた。
原因はこいつらではない。
再び地面が揺れた。
森の奥から木の倒れる音がする。
一本。
二本。
三本。
やがて、木々の向こうから巨大な影が現れた。
「……なんだ、あれ」
思わず声が出た。
熊に似ている。
ただし、でかい。
バルガス将軍もかなり大きな熊だったが、目の前の魔獣は比較にならない。四つ足の状態でも俺の身長をはるかに超え、立ち上がれば小さな家くらいありそうだった。
「キングベア……」
騎士団長の声が震えている。
「知ってるのか?」
「大型魔獣です。記録では、討伐には最低でも騎士五十人が必要と……」
「四十人しかいないな」
「撤退しましょう」
即答だった。
「近隣の村を完全に避難させ、王都へ援軍を要請します」
妥当な判断だと思う。
俺もそうしようとした。
キングベアがこちらを見た。
次の瞬間、突進してきた。
「散れ!」
俺は叫んだ。
騎士たちが左右へ飛ぶ。
俺だけが残る。
逃げてもよかった。
だが、こいつを自由にすれば、先ほど逃げたグレイボアどころではない被害が出る。
「仕方ないな」
俺は剣を構えた。
正面から受けるのはさすがに無理だ。
直前で横へ跳ぶ。
巨大な前脚が振られる。
避ける。
速い。
見た目から想像していたより、ずっと速かった。
二撃目を剣で受ける。
重い。
足元の地面が沈む。
「これは……」
強い。
久しぶりに、そう思った。
自然と口元が緩んだ。
俺は剣を握り直す。
「いいな」
キングベアが吠えた。
俺も踏み込む。
◇
戦いは五分ほどで終わった。
最後はキングベアの懐へ入り、全力で剣を振り抜いた。
巨大な身体がゆっくりと傾き、地響きを立てて倒れる。
俺はしばらく動かなかった。
念のためだ。
起き上がらないことを確認してから、剣についた血を払う。
「終わったぞ」
振り返る。
騎士たちが誰も動いていない。
「どうした?」
騎士団長が口を開いた。
「……旦那様」
「ん?」
「お怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「ああ」
騎士団長はキングベアを見る。
それから俺を見る。
またキングベアを見る。
「そうですか……」
なぜか遠い目をしていた。
◇
屋敷へ帰ったのは三日後だった。
村では盛大に歓迎された。
キングベアを一人で倒したという話は、俺たちより先に伝わっていたらしい。
「レオン様!」
「英雄様!」
「領主様万歳!」
大げさだと思う。
俺としては、たまたま俺が強かったから倒しただけだ。
騎士たちに任せれば死者が出たかもしれない。それなら俺が戦った方がいい。
それだけの話だった。
屋敷へ戻ると、妻たちが待っていた。
「あなた!」
最初に飛びついてきたのは猫獣人だった。
首元を見る。
白い真珠。
エレナだ。
「ただいま」
「お怪我はありませんか?」
「ないよ」
「本当に一人でキングベアを倒したのですか?」
「結果的には」
妻たちが騒ぎ始める。
俺は少し疲れていたので、適当に答えながら部屋へ戻った。
翌日。
執事が大量の手紙を持ってきた。
嫌な予感がした。
「なんだ、それ」
「旦那様へのお手紙でございます」
「誰から?」
「主にご令嬢方からですな」
「……何通ある?」
「本日届いた分だけで二十三通ほど」
「捨てていい?」
「いけません」
執事は真顔だった。
俺は机に突っ伏した。
キングベアを倒した話が広まり、また縁談が増えたらしい。
以前の外交試合のときよりひどい。
「旦那様」
「なんだ」
「街では若い女性たちの間で、旦那様のお姿を描いた絵姿が売られているそうです」
「やめさせられない?」
「なぜでございます?」
「恥ずかしいから」
「謙虚でいらっしゃる」
「違う」
執事は満足そうに頷いた。
その日の午後、ミレーヌから聞いた話では、俺がキングベアと戦った場所をわざわざ見に行く女性まで現れているらしい。
意味が分からない。
俺はただ害獣を一匹倒しただけだ。
しかし、この国では強さこそ最大の魅力である。
隣国最強の戦士を一撃で吹き飛ばし、今度は大型魔獣を一人で倒した。
どうやら俺は、自分で思っていた以上に取り返しのつかないことをしてしまったらしい。
「十一人目くらい、迎えてもいいんじゃない?」
夕食の席でセレスが言った。
「嫌だ」
「どうして?」
「十人で十分だからだ」
「でも、お断りするのも大変でしょう?」
「増やしたらもっと大変になる」
主に俺が。
妻が十一人になれば、新しい宝飾品を決めなければならない。
十二人、十三人と増えていけば、そのうち宝石だけでは足りなくなる。
色と種類の組み合わせまで覚える生活など絶対に嫌だ。
「あなたは本当に変わっていますね」
ミレーヌが笑った。
「そうか?」
「普通、あなたほど強い殿方なら、もっと女性を欲しがるものですよ」
「今のままで満足しているよ」
これは本心だった。
妻たちは良い人たちだ。
これ以上必要ない。
ミレーヌが嬉しそうに微笑み、ほかの妻たちも顔を見合わせる。
「そんなことを言うから、またモテるのですよ」
エレナが言った。
「俺のせいなのか?」
「もちろん」
納得できない。
強いからモテる。
戦えばもっとモテる。
断れば誠実だと言われて、さらにモテる。
だったら、俺はいったいどうすればいいのだろう。
その答えは、キングベアを倒すより難しそうだった。




