第79話 現場監督、小さな穴を突く
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
レオンの邸の会議室に足を踏み入れたとき、誠は昨夜のことを思い出して少し気恥ずかしくなった。ハンナに弱さを預けた夜。あれから何かが変わったわけではない。伯爵家の書状も、認可留保の話も、何ひとつ解決してはいない。それでも、部屋の空気を吸い込んだ肺の底に、以前よりわずかに余裕があるのがわかった。
「監督、おはようございます」
セラが顔を上げて言った。書類の山に囲まれた彼女の目の下には、相変わらず薄い隈がある。誠は椅子を引いて座りながら、いつもより一拍長く彼女の表情を見た。
「おはよう。今日は何から聞けばいい」
以前の誠なら、報告を聞きながら半分は自分の無力さを数えていただろう。今日は違った。誰かの言葉を、誰かの言葉としてそのまま受け止める余地がある。それだけのことが、こんなに楽なのかと自分でも驚いた。
レオンが対面に腰を下ろし、腕を組んだ。
「新しい進展はある。だが、決定的とは言い難い」
セラが書類を三枚、机に並べた。
「北回りルートの既得権益者への調査、七件が終わりました。うち四件は、伯爵家からの働きかけがあったことを示唆する証言が取れています。ヴァレンス伯爵が今回の一件に経済的な利害を持っているという裏付けは、これで固まりつつあります」
「思ったより早いな」
レオンの声に、わずかな安堵が滲む。セラは頷いたが、すぐに表情を引き締めた。
「ですが、これは状況証拠に過ぎません。書状に書かれた『規格不適合』の指摘そのものを崩せるわけではない。王都監理機関の副署がある以上、動機を疑うだけでは手続きは止まりません」
「向こうの狙いはわかった。証拠も揃ってきた。なのに、決め手がない、か」
レオンが指先で机を軽く叩いた。苛立ちというより、焦れったさを持て余しているような仕草だった。
「経済的な利害を隠して大義名分を掲げる。手口としては珍しくもない。だが珍しくないからこそ、崩し方も型どおりでは通じない」
「規格不適合の指摘自体に、もう一段踏み込む必要があります。ただ、支保工の件は反証済みですが、排水勾配の算定根拠については、まだ完全な反論材料がありません」
セラの声には、珍しく行き詰まりの色があった。誠はその声の質感に、以前の自分を重ねた。手は尽くした、データも揃えた、それでもどこか届かない。あの感覚は嫌というほど知っている。
誠は腕を組んだ。頭の片隅で、何かが引っかかったままだった。あの日から、ずっとそこにある違和感。言葉にしようとすると、輪郭がぼやけて逃げていく。だが今日は、逃がすまいと決めていた。
「その、規格不適合の根拠っていうのは、もう一度詳しく聞けるか」
「支保工の設置間隔と排水勾配の算定根拠です。前者は現地の写真と検収記録で反証済み。問題は後者です」
セラが該当の書状を誠の前に滑らせた。誠は目を通した。数字が並ぶ。勾配の計算式、係数、そして――前提となる地下水位の値。
その瞬間、頭の中で何かが噛み合う音がした。
「待ってくれ」
誠は思わず声を出していた。三人の視線が集まる。レオンが片眉を上げた。
「どうした」
「この計算、地下水位を想定より高く見積もってる。ここに書いてある数字だと、豊水期の平均より二割以上高い」
誠は書状の一点を指で叩いた。
「けど、俺が【大地審眼】で確認した現場の地下水位は、これより明らかに低い。乾季も豊水期も含めて、何度も測ってる。図面の裏に控えを取ってあるはずだ」
誠は目を閉じ、記憶の中の現場を辿った。診断特化の力は紙の上の数字には効かない。だが、現場そのものは何度もこの目と手で確かめてきた。掘削の際に染み出した水の高さ、雨上がりの翌朝に測った水位、乾いた季節に石を積み直したときの土の湿り気。断片的な記憶が、頭の中で一枚の表に組み上がっていく。
「豊水期でもここまでは上がらない。俺が現場で測った限りじゃ、な」
ミラが弾かれたように立ち上がった。
「監督、それって……!」
「ああ。この数字が正しいなら、排水勾配はもっと緩くていい。もっと言えば、向こうの主張する『不適合』は、実際の地盤条件じゃなくて、机上の――たぶん王都の標準値をそのまま当てはめただけの、現場を見ていない数字が前提になってる」
言いながら、誠は自分の声が少しずつ落ち着いていくのを感じた。これは前世の記憶ではない。過去でも、亡霊でもない。目の前の書類と、自分が測った数字と、その間にある明らかな食い違い。それだけのことだった。
だが、それだけのことが、今の自分には確かな地面に思えた。
「現場条件を無視した基準の当てはめは、実務じゃよくあることだ。悪意があるとは限らない。けど、悪意がなくても、間違いは間違いだ」
セラが書状と誠の顔を交互に見た。その目に、みるみる光が宿っていく。
「監督、その控えの図面、今すぐ見せていただけますか」
「持ってきてる」
誠は鞄から折り畳んだ図面を取り出した。セラがそれを広げ、書状の数字と突き合わせる。指先が紙の上を滑り、止まる。
「……間違いありません。書状の想定地下水位は、少なくとも二つの季節の実測値と矛盾しています。しかも」
セラの声に、抑えきれない張りが混じった。
「これは技術論争ではなく、手続き論として使えます。監理機関への提出書類には、現地実測値との整合性を明記する義務がある。今回の書状はそれを怠っている――いえ、怠ったのではなく、実測せずに標準値を流用した可能性が高い。そこを突けば、書状そのものの信頼性に疑義を呈することができます」
「種は俺が出した。あとは頼めるか」
「もちろんです。監督が拾ってくださった穴を、こちらで料理します」
セラの口元に、珍しく笑みに近いものが浮かんだ。レオンが大きく息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……まさか、こんなところから風穴が開くとはな」
「決定打ではありません」
セラがすぐに釘を刺した。
「これで書状の信頼性に傷はつきますが、伯爵側が実測値を出し直して再提出してくる可能性はあります。時間は稼げますが、完全な決着にはまだ距離がある」
「それでも、だ」
レオンが誠を見た。その目には、これまでとは違う色があった。
「一歩は一歩だ。誠、よくやった」
「たまたま気づいただけだ」
「たまたまじゃない」
ミラが誠の袖を軽く引っ張った。目の縁が、心なしか赤い。
「監督が、ずっと現場の数字を測り続けてたから気づけたんです。たまたまなんかじゃ、ない」
誠は何と返せばいいかわからず、ただ短く頷いた。専門性が、殴り合いにならない場所で役に立った。そのことが、思いのほか深く胸に沁みた。
現場で汗を流すことだけが仕事の証明だと、ずっとそう思って生きてきた。図面を睨み、数字を並べ、誰かの生活を支えることでしか自分の価値を測れなかった。だが今、この部屋にあるのは泥にまみれた手柄ではない。紙の上の数字を読み解いただけの、静かな一撃だ。それでも三人の顔には、疑いようのない安堵と喜びがある。
前世で積み上げてきたものは、無駄ではなかった。殴り合いにならない戦い方があるのだと、誠は初めて実感を持って理解した気がした。
セラが書類をまとめながら、静かに言った。
「これで、向こうも簡単には押し切れなくなります」
その声には、確かな手応えと、それでもなお残る警戒とが同居していた。
「ただし、油断はできません。伯爵家がこの程度で退くとは思えない」
「わかってる」
誠は窓の外に目をやった。空はまだ薄曇りだったが、朝方よりいくらか明るさを増している気がした。
レオンが立ち上がり、伸びをするように肩を回した。
「今日のところは、これで動ける材料が揃った。セラ、書状の再検討案を至急まとめてくれ。誠、控えの図面はこちらで預からせてもらってもいいか」
「ああ、構わない」
「ミラ、お前も監督の記録を手伝ってやれ。実測値の裏付けは多いに越したことはない」
「もちろんです!」
ミラが誠の隣で拳を握った。誇らしさを隠しきれない横顔に、誠は思わず口元を緩めた。
嵐は去っていない。むしろ、これからが本番かもしれない。伯爵家が黙って引き下がるとは、誰も思っていなかった。それでも今日は、一人で抱え込まずに済んだ。数字は嘘をつかない。そして自分は、その数字を読む術を持っている。
部屋を出るとき、セラがふと足を止めて振り返った。
「監督」
「ん?」
「ありがとうございました。……本当に」
珍しく飾り気のない言葉だった。誠は小さく頷き返すだけにした。それで十分に伝わる気がしたからだ。
それだけで、今は十分だった。
次回の更新は、10月3日 21:10を予定しています。
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