第78話 現場監督、崩された記憶と向き合う
夜、誠は一人、仮の作業小屋にいた。
会議の後、ミラを先に帰らせ、誠だけがここに残っていた。理由らしい理由はなかった。ただ、誰かと顔を合わせる気力が、今日はどうしても湧かなかった。
道具箱の蓋を開けたが、何をするでもなく、また閉じた。手が、いつものように動かない。誠は壁に背をもたれさせ、ゆっくりと座り込んだ。
――間に合わせろ。方法は聞かない。
不意に、声が蘇った。
現場事務所の蛍光灯。書類が積まれた机。その向こうから飛んでくる、抑揚のない声。火村工事部長の声だった。
あの日も、こんな風に追い詰められていた。工期が迫り、本来なら踏むべき段取りを、上から一方的に省略された。安全確認は後回し。足場の組み直しは間に合わせで済ませろ。誠は何度も抗議したが、聞き入れられることはなかった。
法面には、崩落の予兆があった。誠にはわかっていた。だから、報告を上げた。だが、対策が講じられるより先に、作業は進められてしまった。
「監督、これ、本当に大丈夫なんすか」
若い声が、記憶の中で誠に問いかける。柏木悠真の声だった。誠を慕い、いつも一番に声をかけてくる若手だった。
「大丈夫じゃない。だが、今は、これで進めるしかない」
あの時の自分の答えを、誠は今でも覚えている。あれは嘘だった。大丈夫ではないとわかっていながら、上の圧力に屈して、誠は現場を進めてしまった。柏木にそう答えた、まさにその日のうちに、法面は崩れた。
――柏木、下がれ!
叫んだ瞬間の記憶は、いつも同じところで途切れる。土砂の重み。視界が暗くなる感覚。そして、次に気づいた時には、もう何もかも遅かった。
誠は膝を抱え、額を押し当てた。
あの時と、今と。状況はまるで違う。だが、腹の底にある感覚は、驚くほど似ていた。正しいとわかっていることが、正しいというだけでは通らない。上に立つ者の一存で、積み上げてきたものが簡単に踏みにじられる。あの時は工期優先の権力者だった。今は、格式という壁を持つ伯爵だった。形は違っても、誠を押し潰そうとする力の質は、同じだった。
また、同じことが起きるのか。
その恐怖が、誠の胸の中で膨れ上がった。今回は、誠一人の問題ではない。ミラも、セラも、レオンも、この一件に巻き込んでいる。誠の判断ひとつ、誠の踏ん張りひとつが、多くの人の生活に関わっている。かつて、柏木一人を守れなかった誠が、今度はこの領地の何もかもを背負おうとしている。
背負いきれるはずがない。
そんな声が、頭の奥で響いた。
誠はこれまで、何でも自分で抱え込んできた。現場の判断も、責任も、失敗の後始末も。それが誠のやり方だった。だが今、その癖が、誠自身を押し潰そうとしていた。一人で抱えれば抱えるほど、あの日の記憶と今の状況が、区別のつかないものになっていく。
また道具箱に手が伸びかけたが、誠はその手を途中で止めた。今、道具を磨いたところで、何かが変わるわけではない。むしろ、いつもの逃げ場に逃げ込もうとしている自分に気づいて、誠はその手を引っ込めた。
セラに教わった「これは技術の話じゃない」という言葉も、レオンの「格式の壁」の話も、頭ではわかっている。だが今夜、誠の中にあるのは、そういう理屈ではなく、もっと原始的な恐怖だった。また誰かを守れないかもしれない。また、自分の判断のせいで、取り返しのつかないことが起きるかもしれない。その恐怖の前では、これまで積み上げてきた理解も、あまり役に立たなかった。
「監督?」
戸口から、静かな声がした。ハンナだった。
「こんな時間に、どうした」
誠は顔を上げようとしたが、うまく表情が作れなかった。
「監督が、今日、会議のあとから様子がおかしいって、ミラが心配してました」
ハンナは小屋の中に入り、誠の少し離れた場所に腰を下ろした。何かを問い詰めるでもなく、ただそこにいるだけだった。
「疲れてる、とは聞かないでくれ」
誠は掠れた声で言った。
「前にも言いましたけど、監督はちゃんと自分を大事にしてください。今日は、それだけ、伝えに来ました」
その言葉に、誠は喉の奥が締まるのを感じた。忘れていたわけではない言葉だった。だが、今夜のこの重さの中で聞くと、以前とは違う響きを持って届いた。
「ミラに聞かなくても、なんとなく、監督の様子がおかしいのはわかりました」
ハンナは静かに付け加えた。
「うまく言えませんが、監督が現場にいる時の空気と、今日レオン様のところから戻ってきた時の空気は、違いました」
しばらく、二人とも黙っていた。小屋の外で、虫の音が響いている。
「昔、似たようなことがあった」
誠は、自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にしていた。
「部下を、守れなかった。上の判断で、安全な手順を省かれて、それでも現場は止まらなくて。俺が守ろうとした時には、もう遅かった」
誠はどこの出身で、いつのことなのか、そこまでは語らなかった。語れなかった、というほうが近いかもしれない。ただ、その一つの事実だけを、誠は初めて誰かの前で言葉にした。
ハンナは何も言わず、ただ耳を傾けていた。急かすことも、慰めの言葉を挟むこともなかった。
「今回も、似た匂いがする。俺の判断ひとつで、みんなを危ない目に遭わせるんじゃないかって、そう思うと、動けなくなる」
「監督」
ハンナが静かに言った。
「うちの人も、そうでした」
誠は顔を上げた。
「増水した川で、渡し場が流されて。あの人は、行かなくてもよかった日でした。でも、村のみんなのために、荷を運ぶって決めて、出て行きました。帰ってこなかった時、あたし、ずっと自分を責めました。止めればよかった、って」
ハンナの声は静かだったが、その奥に、長い年月をかけて丸くなった悲しみがあった。
「でも、今は思います。あの人が背負おうとしたものは、あの人の意志で、あの人が選んだものでした。あたしが止められたかどうかは、また別の話です」
誠は言葉が出なかった。
「監督が今、抱えてるものも、監督一人のせいじゃありません。伯爵の言いがかりも、格式の壁も、監督が作ったものじゃない。監督は、ただ、正しくやろうとしてるだけです」
「正しくやっても、守れないことがある」
「あります」
ハンナは頷いた。
「守れないことも、ある。それでも、監督は一人じゃありません。あたしも、ミラも、セラさんも、レオン様も。みんな、監督の隣にいます。あの日の監督とは、違います」
「あの時は、俺一人だった」
誠は目を閉じたまま、続けた。
「相談する相手もいなかった。いや、いたのかもしれないが、頼る、って発想がそもそもなかった。全部、自分でどうにかしなきゃいけないと思ってた。それで、結局、一番大事なものを守れなかった」
「今は、違います」
ハンナが言った。
「今の監督には、頼れる相手がいます。セラさんは、書類の戦い方を教えてくれる。レオン様は、領主として盾になろうとしてる。ミラは、監督の隣を離れない。そして、あたしは……」
ハンナは少し言葉を止めた。
「あたしは、監督が倒れそうな時に、隣に座ることくらいしかできません。でも、それでもいいなら、ここにいます」
誠は目を閉じた。あの現場事務所の蛍光灯、火村の声、崩れ落ちる法面――それらの記憶が、少しずつ、今この瞬間から遠ざかっていくのを感じた。完全に消えることはない。だが、今、隣に誰かがいるという事実が、その記憶に押し潰されそうな誠を、かろうじて現在に繋ぎとめていた。
「情けない話だと、自分でも思う」
誠は絞り出すように言った。
「一人で何とかしなきゃいけない、ってずっと思ってきた。今もそう思ってる。だが、今夜は、それができなかった」
「情けなくなんかありません」
ハンナはきっぱりと言った。
「一人で抱えられないことを、抱えられないって認めるのは、簡単なことじゃないです。監督は今、それができました」
「それだけで、十分だ」
誠は思わず言った。自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
「一人で抱えなくていい、ってことが、どれだけ大きな違いか、今夜、初めてわかった気がする」
しばらく、二人は黙って座っていた。虫の音だけが、小屋の中に響いていた。誠は膝を抱えたまま、少しずつ、呼吸が落ち着いていくのを感じた。
「監督は、いつも誰かのために動いてます。ミラに技術を教えて、セラさんの仕事を手伝って、レオン様の領地のために働いて。でも、監督自身のために誰かが動く番があってもいい、って、あたしはずっと思ってました」
誠はその言葉を、しばらく黙って受け止めた。誰かに与えることには慣れていたが、与えられることには、まだ慣れていなかった。だが今夜、ハンナのその言葉が、誠の中に染み込んでいくのを感じた。
「明日も、監督は監督のままでいい。一人で全部背負わなくていい。それだけです」
ハンナはそう言って、静かに立ち上がった。
「戻りましょう。夜は、冷えます」
誠は頷き、ゆっくりと立ち上がった。足元がまだ少しふらついたが、さっきよりは、確かに軽くなっていた。
小屋を出ると、夜空には星が広がっていた。ハンナは少し先を歩き、誠はその背中について歩いた。並んで歩くというよりは、まだ、少し距離を置いた歩き方だった。だが、その距離は、以前より確かに近づいていた。
町の明かりが遠くに見えてきた頃、ハンナがふと足を止めた。
「監督」
「なんだ」
「明日、また来ます。今日みたいに、何も聞かずに」
「毎日来られたら、迷惑してるって言うところだが」
誠がそう言うと、ハンナは小さく笑った。
「迷惑じゃないなら、来ます」
「ああ。待ってる」
その一言に、誠は自分でも意外なほど、素直な気持ちが乗っているのに気づいた。
「今度は、違う」
誠は小さく呟いた。誰に言うでもなく、自分自身への言葉だった。
一人で背負う必要はない。そのことを、今夜、誠は初めて、本当の意味で受け入れた気がした。まだ何も解決していない。伯爵との戦いは続いているし、明日には、また新しい壁が立ちはだかるかもしれない。だが、その壁に向き合う自分は、もう昨日までの自分とは、少しだけ違っていた。
かつて、誠は一人で全てを背負い、一人で全てを失った。今は、隣に誰かがいる。それだけで、明日への一歩が、少しだけ軽くなるということを、誠は今夜、身をもって知った。
次回の更新は、10月2日 21:10を予定しています。
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