第77話 現場監督、新しい手に気づく
呼び出しは、朝一番に来た。
「至急、お越しください」
セラの使いが持ってきた伝言は、いつもの慇懃さの中に、隠しきれない切迫感があった。誠はミラと共に、朝食もそこそこにレオン邸へ向かった。道すがら、ミラも珍しく口数が少なかった。何かよくないことが起きた、という予感だけが、二人の間で共有されていた。
会議室に着くと、既にレオンとセラが顔を突き合わせていた。机の上には、見覚えのない書類が広げられている。二人の表情は、これまでのどの対策会議よりも険しかった。誠が部屋に足を踏み入れた瞬間、その空気の重さが肌に伝わってきた。
「何があった」
誠が尋ねると、レオンが低い声で答えた。
「伯爵側が、新しい手を打ってきた」
セラが書類を誠のほうへ向けた。
「北回りルートの通行に関わる商人たちの連名で、陳情書が出されました。『南方ルートの新工法は安全性が未確認であり、既存の北回りルートの維持強化を優先すべき』という内容です」
「商人たちが、自分から言い出したのか」
「表向きは、そうなっています。ですが――」
セラの指が、陳情書の署名欄を辿った。
「署名者の大半が、伯爵の縁戚か、伯爵から便宜を受けている商会の名です。伯爵自身が直接動くのではなく、利害関係者を使って、外堀を埋めにきています」
「それだけじゃない」
レオンが続けた。
「王都の『中立な第三者機関』とやらが、追加の審査を要求してきた。名目上は公正な立場だが、その機関の長は、伯爵の後ろ盾で就任した人物だ」
誠は書類に目を通した。文面は整然としていて、どこにも不正の証拠は見当たらない。だが、その整然とした体裁こそが、狙って作られたもののように思えた。
署名者の名前を、誠は一つひとつ目で追った。見覚えのある屋号もいくつかあった。峠道の隧道が開通してから、南方ルートを使うようになった商人たちの中にも、名を連ねている者がいる。それが今、逆の立場で名前を出していることに、誠は複雑な思いを抱いた。
「これだけの人数を、短期間で集めたのか」
誠が呟くと、レオンが頷いた。
「伯爵の力の見せつけでもあるんだろうな。これだけの人間を、意のままに動かせるということを、俺たちに示している」
「セラのデータは、使えなくなるのか」
誠が尋ねると、セラは首を振った。
「無効になるわけではありません。ですが、この追加審査が通れば、審査自体が振り出しに戻ります。私たちが積み上げてきた実績データも、前例の調査も、一旦、審査のやり直しという形で棚上げにされる可能性がある」
「時間稼ぎか」
「はい。しかも、今度は向こう側が『公正な手続き』という体裁を纏っています。以前のような、露骨な圧力ではありません」
レオンが机に拳を軽く打ちつけた。
「厄介なのは、これに正面から反論すると、こちらが『公正な審査を拒む側』に見えかねないことだ」
セラが頷いた。
「その通りです。第三者機関の中立性そのものに疑義を呈するには、まず、機関長と伯爵の関係を証明する必要があります。ですが、それには時間がかかる」
「どれくらいだ」
「早くても、ひと月。下手をすれば、もっと」
「ひと月あれば、向こうはさらに次の手を打ってくるだろうな」
レオンが苦い顔をした。
「北回りルートの既得権益者を巻き込んだのは、うまいやり方だ。商人たちの陳情という体裁を取れば、伯爵個人の思惑には見えない。仮に伯爵と機関のトップとの繋がりを暴いたところで、この陳情そのものは、また別に存在し続ける」
「陳情の署名者を、個別に切り崩すことは」
誠が思わず口を挟んだ。
「難しいでしょう。署名者の多くは、伯爵から何らかの便宜を受けている立場です。彼らにとっては、伯爵の意向に逆らうことのほうが、リスクが大きい」
セラの返答は淡々としていたが、誠の申し出をやんわりと退けるものだった。誠はまた口をつぐんだ。
レオンとセラの会話は、そこから技術的な応酬に入っていった。追加審査の要求事項をひとつずつ検討し、どこまでなら受け入れられるか、どこから先は明確に拒否すべきか。誠には理解の追いつかない、行政と法の言葉のやり取りが、机の上で交わされていく。
「審査項目のうち、地盤調査の再実施は受け入れてもいい。むしろ、こちらから積極的に応じる姿勢を見せたほうが、後々有利に働く」
セラが言うと、レオンが眉をひそめた。
「時間を余計に食うことにはならないか」
「なります。ですが、審査そのものを拒否すれば、向こうの思う壺です。受け入れるべきところは受け入れ、不当な部分だけを狙い撃ちで指摘する。そのほうが、長期的には筋が通ります」
「セラの判断に任せる」
レオンはそう言ったが、その声には、判断を委ねることへの葛藤も滲んでいた。領主として最終的な責任を負うのは自分だという自覚と、専門家の判断を信頼する必要性との間で、レオン自身も揺れているのが、誠には見て取れた。
誠は、その会話の外側に立っていた。
口を挟もうとして、何度か言葉を探した。だが、自分の知っている言葉では、この局面に届かないことは、誠自身よくわかっていた。技術の正しさを証明することと、この搦め手をかわすこととは、まったく別の戦いだった。
これまでの誠なら、わからないことがあれば、まず現場に出て、自分の目で確かめてきた。だが今回の相手には、確かめるべき現場そのものが存在しない。あるのは書類と、人と人との間に張り巡らされた見えない糸だけだった。
決めるのと、続けるのは別だ。
誠はふと、そんなことを思った。伯爵の一手に「一歩下がる」と決めたのは、もう随分前のことのように感じられる。だが、決めたことを続けるというのは、こういう瞬間の連続に耐え続けることなのだと、今更ながらに思い知らされていた。一度決めればそれで終わり、というものではない。毎日、毎回の場面で、また同じ選択をし直す必要があった。
口を開きかけては、閉じる。その繰り返しだった。セラとレオンのやり取りに、誠が差し挟める言葉は、今のところひとつもなかった。現場でなら、誠はいつも会話の中心にいた。指示を出し、判断を下し、段取りを組む。だが今、この部屋での誠は、ただの傍観者に近かった。
椅子の上で、誠は自分の手を見た。土を掘り、石を積み、水路を通してきた手だ。だが今、この手でできることは何もない。誠は拳を握りかけて、やめた。握ったところで、何かが変わるわけではなかった。
椅子に座ったまま、誠は机の上に広げられた陳情書の文面を、何度も目で追った。文言そのものは、誠にも読める。だが、その裏にある駆け引きの構造までは、まだ読み解けなかった。
ふと、何かが引っかかった。
陳情書に記された「安全性が未確認」という一文。この言葉自体は、伯爵からの最初の異議申し立てとよく似た響きを持っていた。だが、誠の中で引っかかったのは、その言葉の中身ではなく、もっと別の何かだった。
何かが、噛み合っていない。
その違和感は、まだ形を持たなかった。誠は自分の記憶のどこかを探ろうとした。現場で何度も確かめてきたはずの、ある感覚。だが、それが具体的に何を指しているのか、誠自身にもまだ言葉にできなかった。探り当てる前に、レオンの声が思考を遮った。
「セラ、機関の責任者の経歴を洗い直せ。就任の経緯まで遡って、伯爵との繋がりを一本の線にする」
「承知しました」
会話が一区切りついたところで、ミラが誠の隣に来て、そっと肩を寄せた。何も言わず、ただそこにいるだけだった。誠はミラのその沈黙に、少しだけ救われる思いがした。
「監督、大丈夫?」
小声でミラが尋ねた。
「ああ。ただ、俺にできることが、今は見当たらない」
「見当たらなくても、いていいよ。あたしも、いるから」
その一言に、誠は小さく頷いた。何も解決していない。むしろ、事態は以前よりも厄介になっている。だが、隣に誰かがいるということの意味を、誠はこの数ヶ月で、少しずつ学んでいた。
会議は日が傾くまで続いた。結論らしい結論は出なかった。追加審査への対応方針を固めるだけで、その日は終わった。
「振り出しに戻った、ってことか」
帰り道、誠が呟くと、隣を歩くミラが小さく頷いた。
「戻ったっていうか、また新しい壁が出てきた、って感じ」
誠は空を見上げた。日はすでに沈みかけ、薄暗い雲が広がっている。膠着状態は、終わる気配を見せなかった。
「監督、疲れてる?」
「少しな」
誠は素直に答えた。以前なら、強がって否定していたかもしれない。だが今は、素直に認めるだけの余裕が、わずかながらあった。
「でも、前よりはマシだ。何をすればいいか、少なくとも見えてる」
「見えてるけど、まだ手が届かないんでしょ」
「ああ」
ミラの言葉は的確だった。伯爵の一手は、以前よりも巧妙になっている。だが、誠自身も、この数ヶ月で、以前より多くのことが見えるようになっていた。技術だけでなく、格式や手続き、そして今、目の前にある搦め手の構造まで。
さっき感じた小さな違和感は、まだ言葉にならないまま、誠の中に残り続けていた。それが何なのか、誠自身にもまだわからなかった。だが、その違和感の存在だけは、はっきりと自覚していた。いつか、それが形を持つ日が来るような、そんな予感があった。
次回の更新は、10月1日 21:10を予定しています。
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