第76話 現場監督、次の山を測る
久しぶりに嗅ぐ土の匂いだった。
ヴォルン川へ向かう道すがら、誠は自分の足取りが、ここ数日よりも明らかに軽いことに気づいていた。書類の山を離れ、荷物を背負い、道具箱を提げて歩く。ただそれだけのことが、こんなにも身体を軽くするとは思わなかった。
セラの執務室で過ごした日々は、必要な時間だった。だが、机に向かい続ける姿勢が、誠の身体には合っていなかったらしい。歩くたびに、肩や背中の凝りがほぐれていくのがわかる。土を踏む感覚、風の匂い、遠くに聞こえる鳥の声。そのひとつひとつが、誠の中の何かを取り戻していくようだった。
「監督、なんか嬉しそう」
隣を歩くミラが、からかうように言った。
「顔に出てるか」
「めちゃくちゃ出てる。子供が遠足行く前の日みたいな顔してる」
「うるさいな」
誠は苦笑したが、否定はしなかった。書類の海に沈んでいた数週間、誠は自分でも気づかないうちに、呼吸が浅くなっていた気がする。今、川風を吸い込むと、その浅さが少しずつ元に戻っていくのがわかった。
ヴォルン川は、町から半日ほど歩いた場所にあった。川幅は思いのほか広く、両岸には切り立った岩肌が続いている。水量は豊かで、流れの音が遠くまで響いていた。
「ここが、候補地か」
誠は川岸に立ち、まず全体を見渡した。地形を頭に入れる。上流の勾配、下流への広がり方、周囲の植生。現場に立つと、体が勝手に情報を拾い始める。この感覚を、誠はしばらく忘れていた。
「【大地審眼】、使う?」
「ああ」
誠は目を閉じ、意識を地面に沈めた。視界の裏側に、地質の層が浮かび上がってくる。表土の下に、硬い岩盤が走っている箇所と、緩い堆積層が続く箇所とが、はっきりと分かれて見えた。
「ここ、川幅が急に狭まってるな」
誠は少し上流を指さした。両岸から岩が張り出し、川の流れが一箇所に絞られている。
「岩盤が両岸に露出してる。地質も硬い。何かを堰き止めるには、都合のいい地形だ」
「堰き止める?」
ミラが首を傾げた。
「水路を造るだけじゃないの」
「候補地の調査、としか聞いてない。だが、この地形は――」
誠は言葉を濁した。頭の中に、大きな構造物の輪郭が、ぼんやりと浮かびかけていた。前世の記憶の中にある、コンクリートの塊のような建造物。だが、今はまだ具体的な形にする段階ではない。誠はその感覚を一旦しまい込んだ。
「まだ、はっきりしたことは言えない。だが、面白い地形だ」
ミラも【大地審眼】に似た感覚で、地面に手を当てた。
「あたしにも、硬いところと柔らかいところの違いくらいはわかる。でも監督ほど細かくは視えない」
「場数を踏めば、見えてくる」
誠は岩盤の露出箇所に歩み寄り、表面を手のひらで確かめた。硬質で、風化の跡もほとんどない。基礎として使うなら、申し分のない地盤だった。
「この両岸の岩盤、亀裂も少ない。地質的には、かなり安定してる部類だ」
「安定してるって、良いことだよね」
「ああ。何かを支える土台としては、理想に近い」
誠は上流側にも足を伸ばした。川底の様子を【大地審眼】で追うと、岩盤の連なりが、川を横切るようにして続いているのが見えた。まるで、最初から何かを支えるために用意された地形のようだった。
「ミラ、こっちも視てみろ。川底の岩盤の続き方だ」
ミラは誠の隣にしゃがみ込み、地面に集中した。
「あ、本当だ。両岸だけじゃなくて、川底にも繋がってる」
「そういうことだ。この地形全体が、ひとつの構造として噛み合ってる」
誠は下流側に歩を進めた。堆積層が厚くなっている場所を、誠は入念に確かめた。土砂が積もりやすい地形は、逆に言えば水の流れが緩やかになる場所でもある。
「ここは、逆に水が溜まりやすい地質だ。下流の農地には、これがいい影響を与えてるかもしれないな」
「農地のことまでわかるの?」
「地質だけじゃなく、水の流れ方まで含めて視てる。土砂が肥えた栄養を運んでるなら、下流の畑には、いい影響があるはずだ」
ミラは感心したように誠の手元を覗き込んだ。誠自身、こうして久々に地形と向き合いながら、頭の中で幾つもの可能性が広がっていくのを感じていた。単なる水路の候補地というだけでなく、この場所には、もっと大きな計画の種が眠っているような気がしてならなかった。
誠がそう呟いた時、川向こうの茂みで、何かが動いた気配がした。
誠は視線を上げた。対岸の森の際、木々の隙間に、人影らしきものが一瞬見えた。すぐに気配は消えたが、こちらを窺うような、警戒の色を帯びた視線だったのを、誠は確かに感じ取った。
「監督、今の」
ミラも気づいたらしい。
「誰かいたな」
誠は対岸に目を凝らしたが、既に人の姿はなかった。川岸には、足跡のようなものがひとつだけ、湿った土の上にくっきりと残っている。だが、それ以上の手がかりはなかった。
「森の民、かもな」
誠は言った。この辺りの森には、人里と距離を置いて暮らす者たちがいるという話を、以前ハンナから聞いたことがあった。
「追いかける?」
「いや」
誠は首を振った。今、深追いする理由はない。向こうが何かを警戒しているなら、なおさらだ。
「今日は、測量が目的だ。それだけで十分な収穫がある」
ミラは少し不満そうな顔をしたが、頷いた。誠は気配のあった方角を、しばらく記憶に留めておくことにした。何かあれば、いずれまた縁があるはずだ。
日が傾き始めた頃、二人は帰路についた。町へ戻ると、レオン邸でセラが待っていた。
「監督、お帰りなさい。首尾は」
「悪くない。面白い地形だった」
誠が答えると、セラは小さく頷き、それから表情を引き締めた。
「実は、こちらでも進展がありました」
「伯爵の件か」
「はい。北回りの交易路について、調べが進みました」
セラは書類を取り出した。
「伯爵は、北回りルートの通行税徴収に、個人的な出資をしています。今回の異議申し立てが通り、うちの逆打ち工法による南方ルートの整備が遅れれば、北回りルートの優位が続く。伯爵にとっては、単なる規格の問題ではなく、実利のある話なんです」
「金の話、ってことか」
「そうです。表向きは格式と規格の話をしていますが、裏には利害が絡んでいる。これがはっきりすれば、伯爵の主張の『公正さ』そのものに疑問を投げかけられます」
誠は頷いた。技術の話でも、格式の話でもなく、もっと生々しい利害の話。それを聞いて、誠は妙に納得した。人が動く時には、大抵、こういう理由が隠れている。
「まだ確証には至っていません。もう少し、調査が必要です」
「わかった。俺にできることがあれば言ってくれ」
「今のところは、監督にはこのまま現場の仕事を進めていただくのが一番です。ヴォルン川の件も、次に繋がる材料になるかもしれません」
誠は頷いた。書類の戦いは、まだ終わっていない。だが今日、久々に土の匂いを嗅ぎ、地形と向き合ったことで、自分の中の何かが確かに息を吹き返したのを感じていた。
対岸で見た気配のことは、まだ誰にも話していなかった。あれが何だったのか、誠自身にもわからない。だが、いずれまた交わる時が来るような、そんな予感だけが、胸の奥に小さく残っていた。
「また、ヴォルン川には行くことになりそうか」
誠が尋ねると、セラは書類を整理しながら頷いた。
「おそらくは。あの地形は、この先の計画にも関わってくるはずです」
窓の外では、日が完全に暮れようとしていた。政治の戦いは続いている。だが、今日という一日だけは、誠にとって久々に、現場監督としての自分を取り戻す時間になった。
次回の更新は、9月30日 21:10を予定しています。
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