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第75話 現場監督、領主の孤独を知る

「誠、今夜、付き合え」


夕刻、書類の整理を終えて帰ろうとしていた誠に、レオンが声をかけた。いつもの軽い調子だったが、目の奥に、いつもとは違う色があった。


誠は少し迷ったが、頷いた。伯爵との対面以来、レオンもまた何かを抱えているらしいことは、誠もうすうす感じていた。普段より口数が少なくなった時間帯や、書類を睨む横顔の険しさに、それとなく気づいてはいたが、踏み込んでいいものか判断がつかずにいた。


案内されたのは、レオン邸の奥にある小さな部屋だった。飾り気のない木の机に、安酒の瓶がひとつと、欠けのある杯が二つ置かれている。辺境伯の屋敷にしては、あまりにも質素な酒宴だった。


「辺境伯様の酒盛りにしちゃ、ずいぶん地味だな」


誠が椅子に腰を下ろしながら言うと、レオンは自嘲気味に笑った。


「金がないんだ。知ってるだろう」


レオンは杯に酒を注ぎ、誠の前に置いた。


「今日くらいは、飾らずにやりたい気分でな」


二人はしばらく黙って杯を傾けた。安酒は喉に少し強く、誠はむせそうになるのをこらえた。窓の外では、遠くで夜警の声が響いている。普段なら軽口のひとつも飛んできそうな沈黙だったが、今夜のレオンは、それさえ口にしなかった。


「ミラのこと、聞いたぞ」


レオンが唐突に言った。


「監督が置いてかれてる気がする、と怒ってたんだってな」


「耳が早いな」


「セラから聞いた。心配してたぞ、あいつも」


誠は苦笑した。セラも気にかけていたことに、少し驚いた。


「片づいた話だ。約束はした」


「そうか」


レオンは杯を空け、また注いだ。しばらく無言だったが、その沈黙の質が、誠にはいつもと違って感じられた。


「誠一人の問題ではない、と伯爵に言った」


レオンがぽつりと言った。


「あれは、噓じゃない。だが……」


言葉が途切れた。誠は黙って続きを待った。


「本当のところ、俺があの場でできたことは、あまりなかった。伯爵が誠を軽んじる言葉を並べる間、俺は苛立つことしかできなかった。庇いたい。だが、庇う手立てが足りない」


レオンの声には、普段の飄々とした調子がなかった。


「辺境伯、と名乗ってはいるが、実際のところ、金も、王都との伝手も、大した力にはならない。伯爵は、王室建築院に近い立場だ。俺の爵位のほうが上でも、実質的な発言力じゃ、向こうのほうがずっと強い」


誠は初めて聞く話だった。爵位の上下と、実際の力関係が、必ずしも一致しないということを。


「格式だけなら、俺のほうが上だ。だが、それだけだ。この領地を回すために、俺がどれだけ王都に頭を下げてきたか、誠は知らないだろう」


レオンは杯の酒を見つめた。


「先代――親父が死んでから、俺がこの領地を継いだとき、周りの評価は散々だったよ。金もない、後ろ盾もない若造が、辺境の貧乏領地を回せるわけがない、とな。何年もかけて、少しずつ信用を積んできた。誠が来る前は、その積み上げを守ることだけで精一杯だった」


「聞いたことのない話だな」


「自慢して言うことでもないからな」


レオンは杯を傾けた。


「実力があれば道は開ける、と誠は思ってるかもしれん。だが領主の世界じゃ、実力があっても、格式と伝手の壁の前で、何もできないことがある。俺は、それを何度も見てきた。有能な代官が、家柄だけの貴族に予算を削られて更迭される。まっとうな商人が、身分の低さゆえに取引から締め出される。そういう理不尽を、飲み込むしかない場面を、何度もくぐってきた」


誠は言葉を挟まず、レオンの話に耳を傾け続けた。いつも軽口を叩き、飄々と振る舞うレオンの奥に、これほどの苛立ちと無力感が積もっていたことに、誠は気づいていなかった。


考えてみれば、レオンが弱音らしい弱音を口にするのを、誠はこれまで一度も見たことがなかった。城代との対決の時も、伯爵との対面の時も、レオンはいつも先に立ち、誠の前で崩れることはなかった。その裏側に、これほどの重さがあったとは、誠には想像も及ばなかった。


「誠を引き立てたのは、俺の判断だ。後悔はしていない。だが、その判断の重みを、誠一人に背負わせる形になっているのも事実だ」


「俺は、背負ってるつもりはない」


誠は口を挟んだ。


「お前が引き立てなければ、俺は今頃、村道を直すだけの日雇いのままだった。背負わせてる、って言い方は、少し違う」


レオンは顔を上げ、誠を見た。


「そう言ってもらえると、俺としても少しは楽になる」


「格式という壁は、俺にも見覚えがある」


誠は続けた。


「伯爵と会ったとき、技術じゃ殴れない相手だと思った。今の話を聞いて、お前も同じ壁の中で戦ってるんだとわかった」


伯爵の穏やかな冷たさを思い出す。あの場でレオンが感じていたのは、誠が感じていた屈辱とはまた違う種類の、もっと長い年月をかけて積もった重さだったのかもしれない。誠が壁にぶつかったのは今回が初めてだが、レオンはずっと、その壁の内側で領地を守り続けてきた。


レオンは小さく笑った。皮肉げな笑いではなく、疲れの滲んだ、それでいて少し安堵したような笑いだった。


「同じ壁、か」


「ああ。俺は現場で殴る。お前は、王都との駆け引きで殴る。殴り方は違うが、相手は似たようなものだろう」


「うまいこと言う」


レオンは酒を注ぎ足した。


「誠、お前が来てから、この領地は変わった。峠道も、砦も、水路も。数字の上でも、住民の顔つきの上でも、はっきり良くなった。それは、俺一人の力じゃ、絶対にできなかったことだ」


「お前の判断がなけりゃ、俺の腕も宝の持ち腐れだった」


「持ちつ持たれつ、ってやつか」


「そういうことだ」


誠は杯を掲げた。


「格式は、お前のほうが上でも、俺とお前の間じゃ、そんなもの関係ないだろう。困ったときは、言ってくれ。俺にできることがあれば、やる」


レオンはしばらく誠を見つめ、それから杯を軽くぶつけた。安酒が少し跳ねて、机の上に染みを作った。


「悪いな、こんな愚痴に付き合わせて」


「愚痴くらい、聞く」


「――柄でもないが、助かった」


レオンの声は、いつもより少しだけ低く、素直だった。誠が知る中で、これほど飾りのない言葉をレオンが口にしたのは、初めてかもしれなかった。いつもの飄々とした軽さの裏に、こういう素の部分を隠していたのだと、誠は今夜初めて知った気がした。


窓の外は既に夜が更けていた。二人はしばらく、他愛のない話を続けた。伯爵のことも、格式のことも、それ以上は話題に上らなかった。ただ、安酒を酌み交わすだけの、静かな時間だった。ミラの土魔法の才能について、レオンが冗談交じりに感心してみせたり、誠が前世の記憶をぼかしながら「昔、似たような無力感を味わったことがある」と漏らしたりと、肩の力を抜いた会話が続いた。


「明日は、久しぶりに現場に出てもらう」


帰り際、レオンがふと言った。


「気分転換も兼ねてな。ヴォルン川の候補地、見てきてほしい」


「ああ、助かる」


誠は久々の現場という言葉に、素直に安堵している自分に気づいた。


「ミラも連れていけ。あいつも、そろそろ現場の空気に飢えてる頃だろう」


「そうするか」


レオンは軽く手を上げ、部屋の奥へ戻っていった。その背中は、いつもの飄々とした足取りに戻っていた。だが誠には、その軽さの下にあるものが、もう見えなくなることはなかった。


夜道を歩きながら、誠は今夜の会話を反芻した。格式という壁は、誠だけでなく、レオンもまた、その内側で戦っていた。立場は違っても、二人はよく似た戦場に立っている。そのことが、これまでよりも少しだけ、はっきりと見えた夜だった。

次回の更新は、9月29日 21:10を予定しています。


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