第74話 現場監督、譲れないものを知る
セラの執務室に通う日が、また一日増えた。
誠の一日は、朝からレオン邸に向かい、書類の山と向き合うことで埋まっていた。数字を並べ、条文と照らし合わせ、セラと言葉を交わす。伯爵との一件が始まってから、そういう日々がすっかり定着していた。
現場に顔を出す時間は、その分だけ削られていった。道具箱を磨く暇も、支保の様子を見て回る暇も、以前ほどは取れなくなっている。誠自身、それを気にかけてはいたが、目の前の作業量に追われて、後回しにし続けていた。
「監督、また今日もあっち?」
朝、道具箱を担いだミラが、誠の身支度を見て尋ねた。声には、いつもの軽さがなかった。
「ああ。もう少しで、整理もつきそうなんだ」
「もう少しって、いつから言ってる?」
誠は返答に詰まった。数えてみれば、ミラと現場を回った日は、この十日でわずか二日だった。
「悪いな。今は、こっちを優先しないといけない」
「わかってるけど」
ミラは道具箱の持ち手を握り直した。
「わかってるけど、なんか、置いてかれてる気がする」
誠が現場へ向かわない日、水路の点検や見回りは、ミラが一人でこなしていた。それ自体は問題なくやれている。だが、誠がいなければ教われないことが、ミラにはまだ山ほどあった。
「地盤の色、まだ全部読み分けられるわけじゃないし。支保の間隔だって、監督の勘の部分、まだあたし言葉にできてない」
ミラの声には、焦りが滲んでいた。
「まだ教わってないことが、いっぱいあるのに」
誠は【大地審眼】がミラにも使えることを、当初から見抜いていた。だがミラの土魔法は、誠の技能とは異なる形で開花していて、誠が言葉で説明しても、ミラ自身の感覚として馴染むまでには、まだ時間が必要だった。教える側にとっても、教わる側にとっても、一朝一夕にはいかない領域だった。
「セラの手伝いが片づいたら、また現場に戻る。そう長くはかからない」
誠は言葉を選びながら答えた。だが、その言葉が、ミラの求めているものとずれていることに、誠は気づいていなかった。誠にとっては「時間をどう配分するか」の話だったが、ミラにとっては、もっと切実な何かだった。
「そうやって、監督はいつも先延ばしにする」
ミラの声が、わずかに尖った。
「セラの仕事は大事だってわかる。伯爵の件も、放っておけないってわかってる。でも、あたしにとっても、監督から教わる時間って、いつまでもあるものじゃないでしょ」
「いつまでもある、とは言ってない」
「言ってないけど、そういう扱いされてる気がする」
誠は言い返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。書類仕事の必要性を説明しようとしても、それはミラが問題にしていることの答えになっていない気がした。
「現場が落ち着いたら、まとめて教える。今は仕方ないだろう」
誠はそう言ったが、口にした瞬間、それがミラの求めている答えとは違う気がした。ミラが欲しいのは「まとめて教える」という約束ではなく、今この瞬間、隣にいてほしいという切実さだった。だが誠には、その違いがまだはっきりとは見えていなかった。
ミラは何か言いかけて、結局それ以上は続けず、道具箱を担ぎ直して先に歩き出した。誠はその背中を見送りながら、釈然としない何かが胸に残るのを感じた。
数日後、その苛立ちは、思わぬ形で表に出た。
現場の点検帰り、水路沿いを二人で歩いていた時のことだった。ミラが立ち止まり、拳を握った。夕暮れが近く、水面が橙色に染まっていた。
「監督」
「なんだ」
「あたし、まだ全然、監督に追いついてない」
ミラの声には、これまでにない強さがあった。
「土魔法だって、まだ使い方の半分もわかってない。地盤の締固めも、監督が横で見てなきゃ、まだ心配なところがある。なのに、監督は最近、あたしの隣より、書類の隣にいる時間の方が長い」
「セラの仕事は、俺にしかできないことじゃない。だが今、放っておけば伯爵の件が――」
「わかってるって、言ってるでしょ!」
ミラが声を荒げた。
「わかってるけど、あたしはまだ、監督から学ぶことの方がずっと多いの。あたしにとって、監督が現場にいない時間って、成長が止まってる時間なの。それを、監督は全然、わかってない」
水路の水音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。ミラは俯いたまま、続けた。
「バルドの親方だって、教えてはくれるけど、監督が視てるものとは違う。監督だから、あたしにわかるように言葉にしてくれる。他の誰かじゃダメなの」
誠は言葉に詰まった。ミラの言葉の底にあるものが、ようやく形を持って見えてきた。
ミラが苛立っていたのは、誠が忙しいこと自体ではなかった。誠と過ごす時間が減ることで、自分の成長が止まるのではないかという焦りだった。教わりたいことが、まだ山ほどある。それなのに、教える側がそこにいない。その不安を、ミラはこれまで、誠の前でうまく言葉にできずにいたのだろう。
「悪かった」
誠は素直に言った。
「お前の言う通りだ。書類の仕事に気を取られて、お前がどれだけ焦ってるか、考えてなかった」
ミラは何も言わず、拳を握ったまま俯いた。
「今、俺にできることは、時間を約束することだけだ」
誠は続けた。
「セラの仕事が一区切りついたら、必ず現場に戻る。そうしたら、また一から教える。地盤の読み方も、支保の間隔の勘も、お前が納得するまで、何度でも」
「……本当に?」
「ああ。お前はまだ伸びる。今、追いついてないのは当たり前だ。まだ一年も経ってない。焦らなくていい、とは言わない。焦る気持ちがあるからこそ、お前は伸びてる。だが、置いていくつもりは、俺にはない」
誠は少し言葉を選び、続けた。
「掘削の時、お前が一番先に地盤の異常に気づいたことがあっただろう。あれは、俺が教えた通りにやったからじゃない。お前自身が、感覚を掴み始めてたからだ。俺はまだ、お前の中にあるものを、全部引き出せてない」
バルドでさえ、あの時のミラの反応の早さには驚いていた。誠が言葉で説明する前に、ミラの土魔法が、地面の異変をいち早く捉えていた。教える側として、誠はその芽をまだ十分に育てきれていないという自覚があった。
ミラはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「約束だからね」
いつものタメ口に戻っていた。誠は頷いた。
「約束だ」
「絶対だからね。書類にかまけて忘れました、とか言ったら怒るから」
「忘れない」
ミラは少しだけ表情を緩めた。完全にいつも通りとまではいかなかったが、張り詰めていたものが、幾分か解けたのがわかった。
「監督、書類仕事、頑張ってね。早く終わらせて」
「ああ」
「終わったら、絶対、あたしの番だから」
ミラはそう言って、少し先を歩き出した。歩幅は、さっきまでよりも軽かった。
誠はその背中を見ながら、自分がどれだけミラという存在に頼り、そして同時に、その成長への向き合い方が足りていなかったかを、改めて思い知らされた。教える立場にいると、つい自分の都合で優先順位をつけてしまう。だが、教わる側には教わる側の時間があり、その時間は誠が思っているよりずっと切実なものだった。
書類の仕事も、大事な仕事だ。だが、現場で育てるべきものを、後回しにしすぎてはいけない。段取りとは、目の前の緊急性だけでなく、時間の中で育つものにも配分を割り振ることなのだと、誠は今更ながらに理解した。
誠は、水路の向こうに見える現場の輪郭を見つめた。戻る日は、そう遠くないはずだった。
次回の更新は、9月28日 21:10を予定しています。
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