第73話 現場監督、数字を積む
「監督、手伝ってほしいことがあります」
セラの執務室に呼ばれた誠は、机の上に積まれた書類の山を見て、思わず息を呑んだ。伯爵との対面から数日、屈辱の余韻はまだ胸の奥に燻っていたが、今、目の前にあるのは感情の入る余地のない、純粋な作業量だった。
何もせずに待つよりは、手を動かせることのほうがずっとましだった。誠はその点に、自分でも少し驚くほどの安堵を覚えた。
「これを、全部か」
「はい。峠道の隧道以降、この町の水路まで。工期、事故件数、資材の使用量、住民からの評価。ばらばらに残っている記録を、ひとつの表にまとめたいんです」
「俺は、何をすればいいんだ?」
「監督の現場記録は、私よりずっと正確です。日付、天候、地質条件、作業員の配置。この細かさは、私には出せません」
「そうか」
誠は椅子に腰を下ろし、渡された記録の束に目を通した。自分自身が書いたはずのものなのに、こうして改めて並べられると、知らない量に見えた。
「よし。まずは、日付ごとに並べるか」
誠は自然と、現場で段取りを組む時の癖で動き始めた。まず全体量を把握する。次に分類する。それから優先順位をつける。書類の山を前にしても、体が覚えたやり方は同じように機能した。
作業が始まると、誠の几帳面さが存分に生きた。記録の中の矛盾――ある日の工期報告と資材搬入記録の日付がずれている箇所――を、誠はすぐに見つけた。
「ここ、日付が一日ずれてる。搬入は前日だ」
「――本当ですね。よく気づかれました」
セラが驚いた顔をした。誠にとっては、現場の記録として当然確かめるべき整合性でしかなかった。だが、セラの目には、それが特別な精度に映ったらしい。
二人は黙々と作業を続けた。誠が現場記録を整理し、セラがそれを規格の条文や前例と紐付けていく。誠の役割が終わると、今度はセラの番だった。
「この工期短縮率は、隣接するドラーグ公国側の類似工事の記録と比較できます。向こうの記録には、同じ支保工法を採用した区間で、うちより長い工期がかかったという記述がある」
セラは書類の束から一枚を抜き出し、誠の前に置いた。数字の羅列だったものが、セラの手にかかると、意味を持った主張に変わっていく。
「これと、これを並べれば、うちの工法が特別に危険なわけではないことを示せます。むしろ、標準的な工期より短いのに事故件数がゼロという実績は、規格の運用に十分な幅がある証拠になります」
セラは別の書類を取り出し、条文の該当箇所に指を置いた。
「加えて、この条文の制定当時の議事録を見ると、想定していたのは石積みの旧式工法です。逆打ち工法のような、支保の考え方そのものが違う新しい方法を、当時の条文がそのまま想定していたとは考えにくい。つまり、条文の文言は生きていても、その運用の前提が、今の工法にはそぐわない部分がある」
「そんなことまで調べたのか」
「王都の文官経由で、議事録の写しを取り寄せました。時間はかかりましたが、これがあれば、向こうの主張の土台そのものを揺さぶれます」
誠は感嘆した。数字そのものは、誠が積み上げてきたものだ。だが、その数字をどう並べ、どう組み合わせれば主張になるのか、条文の成立過程まで遡って穴を探すという発想自体、誠にはなかった。
「お前、こういうのが得意なんだな」
「性に合っているんだと思います。現場に出ることはできませんが、記録の中から筋を見つけることは、私にもできる仕事です」
セラの声には、誇りと、わずかな寂しさが混じっていた。誠にはその温度差の理由まではわからなかったが、聞き流さずに黙って耳を傾けた。
「監督は逆ですね。現場の生の数字は読めても、それを外に向けて主張する形にするのは、あまり得意ではなさそうだ」
「否定できないな」
誠は苦笑した。
「現場でなら、数字は自分と、せいぜい現場の仲間に向けて出すものだった。誰かを説得するために出す、っていう発想自体がなかった」
「私が、そこを引き受けます。監督は、数字を作ってください。私は、その数字に言葉をつけます」
「読み方を教えてくれ」
誠が言うと、セラは少し驚いたような顔をした。
「読み方、ですか」
「お前がどうやってこの数字とあの前例を結びつけたのか、その道筋を知りたい。次から自分でもできるように」
セラはしばらく誠の顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「では、ひとつずつ」
セラは条文の一節を指し、隣に置いた実績の数字を指した。
「この条文は、支保工の間隔について『最低限』を定めているだけです。最低限を上回っていることは、危険側にも安全側にも解釈できる。だから、実績データで安全側の解釈を裏付ける必要がある」
誠はその説明を、現場の言葉に置き換えながら聞いた。規格は最低基準。実績は、その基準を上回っていることの証明。単純に言えば、そういうことだった。
「これは、支保の耐力計算と似てるな。最低必要強度を上回っていることを、実測値で示す。考え方は同じだ」
「――そうですね。おっしゃる通りです」
セラは意外そうな顔をした。だがすぐに、その顔に静かな納得が浮かんだ。
「監督の言葉で言い換えると、案外わかりやすくなる。今度、規格の説明文を書くときは、参考にさせてください」
「もうひとつ、聞いていいか」
「なんでしょう」
「議事録まで遡って穴を探す、っていう発想は、どこから来るんだ。俺には、条文は条文としてしか見えない」
セラは少し考えるように視線を落とした。
「条文は、誰かがある目的のために書いたものです。目的がわかれば、その条文がどこまでを想定していて、どこからを想定していないかが見えてきます。現場で言えば、図面の意図を読むのと同じかもしれません」
「図面の意図、か」
誠にとって馴染み深い言葉だった。図面通りに造るだけでなく、なぜその寸法になっているのか、その意図まで読み取ることは、誠が現場で常に心がけてきたことだった。セラの仕事にも、同じ種類の読解があるのだと知って、誠は妙に納得した。
作業は日が傾くまで続いた。誠が数字を出し、セラがそれを言葉にする。セラが道筋を示し、誠がそれを自分の言葉で咀嚼する。それぞれの得意な場所で手を動かしているだけなのに、二人の間には、以前とは違う速さの呼吸が生まれていた。
「これで、いけそうか」
誠が尋ねると、セラは机の上に広げた表を見渡し、少し考えてから答えた。
「決定打とまでは言えません。ですが、伯爵側の『規格不適合』という主張の足元は、これで揺らぐと思います。実績と前例で、向こうの言葉の強さを削れます」
「反撃の芽、ってところか」
「ええ。まだ芽です。育てるのは、これからです」
誠は自分の手元に残った現場記録の束を見た。数字そのものは、以前から誠の中にあったものだ。だがそれが、こうして誰かの手を通り、初めて武器の形を持ち始めている。
「セラ」
「はい」
「助かった」
短い言葉だったが、誠には、それ以上に言うべき言葉が見つからなかった。セラは一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「私も、監督の現場の見方を知れて、勉強になりました」
セラはそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「正直に言うと、私の仕事は、普段、あまり誰かに面白がってもらえるものではありません。数字を並べて、条文を読んで、それだけの仕事に見える。監督が『どこから来る発想か』と聞いてくださったのは、初めてでした」
誠には、その言葉の裏にあるものの全部はわからなかった。だが、セラが今、いつもより少しだけ饒舌になっていることだけは伝わった。
「面白いものは面白い、って言っていいと思うがな」
「――そうですね」
セラは小さく笑った。誠が見た中で、一番自然な笑い方だった。
窓の外はもう暗くなり始めていた。ちょうどその時、廊下からレオンの足音が聞こえてきた。
「進捗はどうだ」
顔を出したレオンに、セラが表を見せた。レオンはざっと目を通し、口の端を上げた。
「悪くない。こっちも、伯爵の懐事情を洗い始めている。北回りの交易路に、あの男が随分と肩入れしているという話がある」
「経済的な利害、ですか」
「まだ噂の域だ。だが、調べる価値はある」
レオンはそれだけ言うと、また廊下の向こうへ戻っていった。誠とセラは、顔を見合わせた。
「持久戦は、少しずつ動き始めているらしい」
誠が呟くと、セラは書類を丁寧に束ね直しながら、小さく頷いた。
「ひとつずつ、積み上げましょう」
机の上の紙の束は、まだ高かった。だが、その高さが、以前ほど重く感じられなかった。
次回の更新は、9月27日 21:10を予定しています。
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