第72話 現場監督、揺るがない相手と会う
「監督」
呼び出しは、思いのほか早く来た。
「ヴァレンス伯爵閣下が、直接お会いになりたいとのことです」
セラがその報せを持ってきたのは、対策会議から数日後のことだった。文面には慇懃な言葉が並んでいたが、要は呼びつけだった。伯爵側の屋敷ではなく、王都に近い中立の館を指定してきたところに、こちらへの配慮というより、伯爵にとって都合のいい場所を選んだだけの意図が透けて見えた。
「行くのは」
「監督殿と、レオン様です。私も同席しますが、発言する立場にはありません」
「立場、か」
「向こうにとって、私は平民の文官です。対等に扱う理由がありません」
セラは淡々と言ったが、誠にはその言葉の重みが少しわかるようになっていた。技術でも実務でもなく、格が物を言う場所に、これから足を踏み入れる。
指定された館に着くと、既に伯爵は奥の椅子に腰を下ろして待っていた。
初めて見るヴァレンス伯爵は、誠が想像していた「権力者」の像とは違った。オルソンのような、指に何個も指輪を光らせ、腹の出た体を窮屈そうに衣装に押し込んだ俗物ではない。伯爵は痩身で、白髪の交じった髪を丁寧に整え、仕立ての良い、しかし決して派手ではない衣装を身につけていた。物腰は穏やかで、声も落ち着いている。
椅子に座る姿勢ひとつにも、無駄がなかった。急いた様子も、苛立った様子もない。時間はこちらの側にある、とでも言いたげな落ち着きだった。オルソンが権力を振りかざす時の粗野な圧力とは、種類が違う。伯爵の圧力は、圧力だと気づく前に、既に相手の呼吸を奪っている類のものだった。
だが、その穏やかさの底に、誠は氷のような冷たさを感じ取った。オルソンの俗物性は、見ればすぐにわかる種類のものだった。伯爵の冷たさは、笑顔の下に隠されていて、油断すると見落としてしまう類のものだった。
「わざわざご足労いただき、感謝します」
伯爵は立ち上がりもせず、椅子に座ったまま軽く頭を下げた。形式上の礼儀は守られていたが、対等な相手への挨拶ではなかった。
「ヴァレンス伯爵、此度の件について、お話を伺いたく」
レオンが口を開いた。誠の隣に立つレオンの声には、いつもの飄々とした調子がなかった。
「ああ、その前に」
伯爵は誠に視線を移した。値踏みするような、感情の読めない目だった。
「あなたが、噂の現場監督殿ですか。一代の騎士爵に叙されたと聞き及んでいます。前例のない、急な栄達ですな」
「前例のない」という言葉に、誠は喉の奥が締まるのを感じた。字面だけを見れば、事実を述べているに過ぎない。だが口調には、それを称える響きは微塵もなかった。
「実力があれば、道は開けるということかと」
誠は短く答えた。感情を乗せすぎないよう、努めて平静な声を作った。
「ほう。実力、ですか」
伯爵はわずかに口の端を上げた。笑みと呼ぶには、温度のないものだった。
「実力というのは、本来、然るべき段階を踏んで示すものです。急ぎ足で栄達した者の実力は、時として確かめる手間が省かれがちだ。私はそこが気になっている」
「規格に適合しているかどうかは、既にセラの立ち会いのもとで検収済みです」
レオンが割って入った。
「検収の手続きそのものに、疑義があるのですよ、辺境伯閣下」
伯爵の声は変わらず穏やかだった。
「検収を行った者――ヴァンス殿でしたか――が、果たして王室基準を正しく理解した上で検収印を押したのか。地方の一文官が、王都の規格解釈をどこまで正確に扱えるものか」
セラは黙って立っていた。表情ひとつ変えなかったが、誠には、その静けさの内側にあるものが、少しだけ見えた気がした。
「規格の解釈に疑義があるなら、然るべき手続きで争えばいい話だ」
レオンの声に、わずかに苛立ちが滲んだ。
「そのつもりです。ですから、こうして正式な手続きを踏んでいる」
伯爵は表情を崩さなかった。
「辺境伯閣下には、色々とご事情がおありなのでしょう。人材が不足する辺境で、急ごしらえの人材登用が必要だったことも、理解します。ただ――」
伯爵は誠へ視線を戻した。
「王国全体の基準を預かる立場としては、地方の事情だけで規格が緩められることは、看過できません。前例を作ってしまえば、他の地方でも同じことが起きてしまう。それは、王国の秩序そのものに関わる話だ」
言葉自体は、筋が通っているように聞こえた。誠の実力を直接否定する言葉はひとつもない。だが、積み重ねられた婉曲な言い回しの一つひとつが、誠の出自と急な立身を、静かに、しかし確実に軽んじていた。
「王室建築院の基準は、何十年、何百年という積み重ねの上にあります。地方の現場で編み出された、その場限りの工夫とは、性質が違う」
伯爵は続けた。
「もちろん、現場の工夫が劣っているとは申しません。ただ、体系として積み上げられたものと、経験則として積み上げられたものとでは、公的な場での重みが違う、というだけの話です」
「経験則、か」
誠は思わず声に出した。
「経験則で造った水路が、二週間、一滴も漏らさず機能しています。それは体系じゃないと言われるのか」
「機能することと、規格に適合していることは、別の問題です」
伯爵は表情を変えなかった。
「これは、あなたの技術を疑っているわけではありません。むしろ、優れているのでしょう。ただ、優れた技術であっても、それを裏付ける手続きが伴わなければ、後に続く者たちの模範にはなり得ない。前例のない登用で、前例のない工法を、前例のない速さで通す。それが積み重なれば、王国の秩序そのものが揺らぐ、と申し上げているのです」
誠は拳を握った。技術の話であれば、いくらでも言い返せる。数値を出し、実測を示し、論理で押し返せる。だが今、目の前の相手は、誠の技術には一言も触れていない。触れる価値もない、というように、話をひとつ上の場所へずらし続けている。
言葉の刃は、鋭さよりも、その静かさで刺さった。誠は奥歯を噛み、何も言わずにその場に立った。
前世でも、似た感覚を味わったことがあった。現場の実績をどれだけ積み上げても、学歴や社内の派閥がものを言う場面では、正しさが正しさのまま通らないことがあった。あの頃は、ただ耐えるしかなかった。今もまた、耐えることしかできない場所に立っている。だが、耐え方だけは、あの頃とは違っていた。
先日セラに教わったことを、誠は頭の中で反芻した。これは技術の話じゃない。格の話だ。だとすれば、ここで感情的に言い返すことは、むしろ相手の土俵に飛び込むだけだ。今の自分にできることは、耐えることだけだった。
拳を握ったまま、誠は自分の呼吸を数えた。ひとつ、ふたつ。地面を踏み固める時と同じ要領で、荒ぶりそうになる何かを、一つひとつ押さえ込んでいく。技術で語れないなら、今はただ、余計なことを言わずに立っていることが、誠にできる唯一の仕事だった。
「誠一人の問題ではない」
レオンが低い声で言った。
「クロイツェン辺境伯領の事業全体への、正式な異議申し立てだ。誠を軽んじることは、俺の判断を軽んじることと同義だ」
「もちろん、そのように受け止めています」
伯爵は軽く頷いたが、その頷きに謝罪の色はなかった。
「私としても、辺境伯閣下の御領地の発展を妨げたいわけではありません。ただ、然るべき手続きは、然るべき手続きとしてきちんと踏んでいただきたい。それだけのことです」
伯爵は立ち上がり、衣装の裾を軽く整えた。
「本日のところは、これで。今後の手続きの推移は、セラ殿を通じてお伝えいただければ結構です」
最後まで、余裕を崩さなかった。誠に対しても、レオンに対しても、決定的な言葉は何ひとつ口にしていない。それでいて、部屋を出ていく背中には、勝敗が既に決したかのような落ち着きがあった。
伯爵が去った後、部屋には重い沈黙が残った。
誠は拳をゆっくりと開いた。爪の跡が手のひらに残っていた。技術で語る余地すら与えられなかった屈辱が、腹の底で燻っている。それでも、感情のままに動かずに済んだことだけは、自分の中の小さな成長として残った。
「厄介な相手だ」
レオンが呟いた。
「ああ」
誠は短く答えた。窓の外はもう、日が暮れかけていた。持久戦は、まだ始まったばかりだった。
次回の更新は、9月26日 21:10を予定しています。
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