第71話 現場監督、一歩下がる
レオン邸の会議室に、四人が顔を揃えた。
誠、ミラ、セラ、そしてレオン。長机を囲む配置は、これまでの検収報告とも祝宴の打ち合わせとも違う、張り詰めた空気を伴っていた。セラの前には、この数日でまとめたらしい書類の束が高く積まれている。
「状況を整理する」
レオンが口火を切った。
「ヴァレンス伯爵からの正式な異議申し立て。規格不適合の指摘。認可の一部留保。放っておけば、罰金と工期延長という実害が出る。ここまではいいな」
「ああ」
誠は頷いた。二週間近く、この事実だけを持て余してきた。だが、今の自分の反応が三日前とは違うことに、誠自身が気づいていた。
「技術の話じゃない。手続きと格の話だ」
自分の言葉で言い直せたことに、誠は少しだけ驚いた。セラに教わった言葉を、そのまま繰り返しているだけかもしれない。それでも、意味を分かった上で口にできている実感があった。
セラが小さく頷いた。
「その通りです。ですから、こちらも技術以外の場所で戦います」
セラは書類の束から一枚を抜き、机の中央に置いた。
「まず、実測データの整理です。峠道の隧道以降、この町の水路まで積み上げてきた工期短縮率、事故件数、住民からの評価。数字にして積み上げます。これは監督殿の現場記録があれば、私のほうでまとめられます」
「わかった」
「次に、規格解釈の調査。他領の類似施工事例を洗い出し、規格の運用に幅があることを示す材料を集めます。こちらは、王都に伝手のある文官経由で進めます」
「時間はかかるのか」
「かかります。急いては、粗が出ます。これは、持久戦です」
レオンが腕を組んだ。
「持久戦、か。向こうも、それを見越して仕掛けてきているだろうな」
「おそらくは。すぐに白黒つく話ではないと、伯爵側もわかった上で書状を出しています。長引かせること自体が、こちらの体力を削る狙いのひとつだと思います」
セラの言葉には迷いがなかった。誠が現場で段取りを組む時と同じ速さで、書類の上の段取りを組んでいる。誠にはその速さがまだ真似できない。
「私が、この場を仕切ります」
セラはそう言い切った。誰かの許可を求める口調ではなかった。
誠は、その言い方に一瞬詰まった。
自分にも何かできることがあるはずだ、という考えが、腹の底から突き上げてきた。現場でなら、こういう時は自分から動く。段取りが甘ければ口を出し、遅れが出れば手を貸す。それが誠のやり方だった。三十五年、それでやってきた。
「俺も、何かやれることは」
言いかけて、誠は自分の声の落ち着きのなさに気づいた。
「規格解釈の調査、俺も一緒にやろう。文官の伝手は無理でも、現場側の資料を漁ることくらいは」
セラは書類から顔を上げ、誠を見た。責めるような目ではなかった。だが、その視線には、誠の申し出をそのまま受け取らない静かな判断があった。
「監督の得意分野ではありません」
「やってみないとわからないだろう」
「わかります。監督は、現場の言葉で規格を読みます。私たちが今必要としているのは、行政の言葉で規格を読むことです。同じ規格でも、読み方が違えば出てくる材料も違う」
誠は言葉を返せなかった。図星だった。誠が規格を読めば、まず現場でどう機能するかを考える。セラが読めば、どの条文がどの前例と結びつくかを考える。同じ紙を見ているようで、見ているものが違う。
現場でなら、誠は誰よりも早く手を動かせる自信があった。地面を見て、壁を見て、必要な段取りを組む。それが誠の強みだった。だが今、目の前にあるのは条文と前例という、誠がまだ手に馴染ませていない道具だ。無理に触れば、余計に時間を食う。頭ではわかっていても、手を止めることが、誠にはひどく難しかった。
「監督が手を出せば、私の側の段取りが崩れます。二人で別々の速さで動けば、噛み合わない部分が必ず出ます」
セラの言葉は淡々としていたが、容赦がなかった。誠は椅子の上で拳を握った。悔しさとも違う、もどかしさに近い感情だった。何もしないでいることが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
現場でなら、手を動かしていれば不安は紛れる。今は、手を動かす先そのものがなかった。動けないまま座っているだけの自分が、ひどく頼りなく感じられた。
「監督」
黙って聞いていたミラが、ふいに口を開いた。
「監督って、昔からそうだよね」
「なんだ、急に」
「掘削のときも、支保の間隔のときも、全部自分で確かめないと気が済まないじゃん。人に任せるくらいなら自分でやる、みたいな」
誠は言葉に詰まった。心当たりがありすぎた。現場では、それが強みだった。誰かに任せて失敗するくらいなら、自分の目で確かめる。そうやって、誠はずっと現場を回してきた。
「それ、今もやろうとしてるでしょ。セラさんの領分に、自分の手を突っ込もうとしてる」
ミラの声には、責める響きはなかった。ただ、見たままを口にしているだけの声だった。
「現場と同じやり方で、書類でも自分で確かめようとしても、うまくいかないんじゃない」
誠はしばらく黙っていた。ミラの言葉が、腹の底にゆっくりと落ちていく。
現場で誠が全部自分で確かめてきたのは、それが誠にできることだったからだ。地面も壁も水も、誠の目と手が及ぶ範囲にあった。だが今回、誠の手が及ぶ範囲の外側で、事は動いている。それでも同じやり方を持ち込もうとしていた自分に、誠はようやく気づいた。
「……そうか」
誠はゆっくりと息を吐いた。
「俺の領分じゃない、ってだけの話か」
「そうです」
セラが静かに言った。
「監督の領分は、現場です。今回、戦う場所は書類の上です。得意な場所で戦う人間が、それぞれ担当を持てばいい。それだけの話です」
誠は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。認めるのに、思ったより時間がかかった。だが一度認めてしまえば、案外すとんと腹に落ちた。
「わかった」
誠は言った。
「今回は、一歩下がる」
レオンが片眉を上げた。
「珍しいこともあるものだな」
「珍しくて悪いか」
「悪くない。むしろ、成長だ」
レオンは軽口の調子だったが、目は真剣だった。
「セラ、段取りは任せる。誠、お前は現場のデータを揃えることと、必要になったら呼ばれたらすぐ動けるようにしておくこと。それでいいか」
「ああ」
誠は頷いた。完全に納得しきったわけではない。何もせずにいることへの落ち着かなさは、まだ胸の奥に残っている。だが、今回だけは、自分の得意な場所ではないことを認めた。
「呼ばれたら、いつでも段取りは組む」
誠は言った。それが、今の自分にできる精一杯の宣言だった。
セラは小さく頷き、書類の束を整え直した。
「では、始めます」
長机の上に広げられた書類の量は、まだこれから増えていくらしかった。誠は道具箱を扱う時のような手つきで、机の端に置かれた紙の束を軽く整えた。自分の仕事ではない。それでも、何もしないよりは、ましだった。
ミラが誠の隣で、退屈そうに足を組み替えた。
「監督、暇になったらあたしと現場の見回り行こうよ。水路、まだ様子見ておきたいし」
「ああ、そうするか」
自分にできることが、書類の外側にまだ残っている。それだけで、少し呼吸が楽になった気がした。
窓の外は、既に日が傾き始めていた。伯爵側からの次の一手が、いつ来るのかはわからない。だが、こちら側の段取りも、静かに動き出していた。
次回の更新は、9月25日 21:10を予定しています。
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