第70話 現場監督、パンひとつで気づかれる
道具箱の中身を並べ替えては、また元に戻す。この数日、誠がやっていることといえば、その程度だった。
書状の件は、セラが段取りを組んでいる最中だ。誠にできることは、今のところ何もない。現場もない。図面を引く相手もいない。時間だけが、いやに丁寧に流れていく。水路の縁に腰かけて、水音を聞くだけの時間が、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。
「監督、こんなところで何してるんですか」
声をかけられて顔を上げると、ハンナが籠を抱えて立っていた。第六章の工事の間、村と町を行き来していたハンナとは、しばらく顔を合わせていなかった。
「ハンナか。久しぶりだな」
「久しぶりって、そんなに経ってないですよ。二月くらいでしょう」
「そうだったか」
誠にとっては、体感でもっと長く感じられた。トンネルを掘り、水路を通し、気づけば季節がひとつ動いていた。
「町に用があって。ついでに、監督の顔でも見ておこうと思って」
ハンナは籠を軽く持ち上げてみせた。中には、乾いたハーブと、丸いパンがいくつか入っている。
「村のほうは、変わりないか」
「変わりないですよ。畑仕事は落ち着いてきたし、子供たちも元気です。この前、また堤のところに花を摘みに行ってました」
渡し場跡に組み込まれた堤のことだと、誠にはすぐわかった。ハンナはそれを、特別なことのようには言わなかった。
「相変わらず、忙しくしてます?」
「いや」
誠は言葉に詰まった。忙しくしていない、という答えが、自分でも意外なほど重く感じられた。
「今は、そうでもない」
ハンナは誠の顔をしばらく見つめた。何かを探すような、それでいて急かさない視線だった。
「監督」
「なんだ」
「疲れてますね」
言われて、誠は自分の顔に触れそうになった。そんなにわかりやすいのかと思ったが、聞き返す気にもなれなかった。
「そんなことはない」
「らしくないです、その言い方」
ハンナは籠を地面に置き、誠の隣に腰を下ろした。急かす様子はなく、ただ隣に座っただけだった。
風が水路のほうから吹いてきて、誠の前髪を揺らした。誠は目を伏せ、しばらく何も言わなかった。ハンナも急かさなかった。町の喧騒が遠くに聞こえるだけで、二人の間には沈黙が流れた。その沈黙が、不思議と気詰まりではなかった。
「言いたくないことは、言わなくていいです。監督がそう決めてるなら」
「……いや」
誠は少し迷ってから、口を開いた。
「書状が一通、届いてな。工事の中身にケチをつけられた」
「ケチ、ですか」
「規格に合わない疑いがある、とか何とか。技術の話としては、大した中身じゃない。だが、無視できる話でもないらしい」
詳しい経緯までは話さなかった。伯爵家の名前も、罰金の可能性も、誠は口にしなかった。話せば長くなるし、ハンナに背負わせるような話でもない。それに、まだ自分の中でも整理がついていない。
「現場でなら、どうにかできる自信がある。だが今回は、勝手が違う」
「勝手が違う、というと」
「殴る場所がわからない、ってやつだ」
ハンナは首を傾げたが、それ以上の説明を求めなかった。誠が言葉にできる分だけを、そのまま受け取っているようだった。
「わからないことに、時間ばかり取られてる」
そう言うだけで、誠は今日初めて、少し息を吐けた気がした。
ハンナは黙って聞いていた。相槌も、質問も最小限だった。誠が話し終えても、すぐには何も言わず、ただ籠から丸いパンをひとつ取り出し、誠のほうへ差し出した。
「食べてください」
「今、腹は減ってない」
「減ってなくても、食べてください」
有無を言わせない口調だった。誠は仕方なく受け取った。パンはまだほんのり温かく、素朴な麦の匂いがした。かじると、思いのほか腹の底に染みた。空腹だったことに、食べて初めて気づいた。
「監督は、いつもそうです」
ハンナが呟いた。
「自分のことは後回し。お腹が減ってることにも、疲れてることにも、気づかないふりをする」
「そんなつもりはない」
「つもりがなくても、そうなってます」
ハンナは籠からもう一つパンを取り、自分の分も頬張った。
「前にも言いましたよね。誠さ……監督は、ちゃんと、自分を大事にしてくださいって」
言い直しの一瞬に、誠は気づいたようで気づかないふりをした。ハンナも、何事もなかったように話を続けた。
誠は覚えていた。忘れていたわけではなかった。ただ、忙しさに紛れて、その言葉を実行に移す機会がなかっただけだ。
「覚えてる」
「なら、いいです」
ハンナはそれ以上、突っ込んで聞いてはこなかった。書状の中身も、伯爵家の名前も、罰金の話も、誠が言わなかったことについては、何ひとつ尋ねなかった。ただ隣に座り、パンを分け、日が傾くまでの時間を、誠と並んで過ごした。
「監督」
「なんだ」
「わからないことがあるとき、抱え込みすぎないでくださいね」
「抱え込んでるつもりはない」
「その言い方も、この前聞きました」
ハンナは軽く笑った。責めるような響きではなく、ただ事実を確かめるような笑い方だった。誠は何も言い返せず、パンの残りを口に運んだ。
わかりやすい解決が訪れたわけではない。書状の件は、まだ何も片づいていない。誠が抱えているものの重さも、変わっていない。だが、隣に誰かがいるというだけで、その重さの座りが、少しだけ違って感じられた。
「そろそろ、行きます」
日が傾き始めた頃、ハンナは籠を持って立ち上がった。
「わざわざ来てくれて、悪かったな」
「悪くないです。ついでですから」
そう言いながらも、ハンナが本当にただの「ついで」でここまで来たのではないことくらい、誠にもわかった。町の用事にしては、少し遠回りな道だ。だが、それを指摘するのも野暮な気がして、誠は黙っていた。
ハンナは軽く言って、それから少しだけ、いつもより長く誠の顔を見た。
「また、顔を見せてください」
「ああ」
「監督が来なくても、あたしが来ますけど」
そう言い残して、ハンナは町の方へ歩いていった。籠の中の残りのパンの匂いが、しばらく風に混じって漂っていた。
誠はしばらくその場に座ったまま、動かなかった。書状の件は、依然として片づいていない。技術の正しさが通らない相手がいるという事実も、何ひとつ変わっていない。だが、誰かが気にかけてくれているという事実だけが、静かに胸の中に残っていた。
一人で抱えるのが当たり前だと、ずっとそう思ってきた。現場でも、前世でも、誰かに弱さを見せることは、隙を見せることと同じだと信じていた節がある。だが今日、ハンナに疲れた顔を見抜かれ、パンをひとつ食べさせられただけで、何かが少しだけ軽くなった。
抱え込みすぎるな、か。
誠は小さく呟いて、ようやく立ち上がった。籠の中の残りのパンの匂いは、もう風に混じって消えていたが、その温かさだけは、まだ手のひらのどこかに残っている気がした。
次回の更新は、9月24日 21:10を予定しています。
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