第69話 現場監督、腕の外側を知る
検収を終えた現場に、誠の出る幕はなかった。
書状が届いてから三日。地下水路は完成した姿のまま静かにそこにあり、誠が手を加える余地はどこにもない。道具箱に手を伸ばしかけては、確かめる相手がいないことを思い出して引っ込める。そんなことを、この三日で何度繰り返しただろうか。
「監督、また道具箱触ってる」
ミラが呆れたように言った。二人で水路沿いを歩いていた朝のことだ。
「別に、悪いことしてるわけじゃないだろう」
「悪いとは言ってないけど…監督、現場がないと落ち着かないんでしょ」
図星だった。誠は道具箱から手を離し、代わりに何をすればいいのかわからないまま、水路の縁に沿って歩いた。完成した石組みは静かで、水音だけが規則正しく続いている。誠が確かめるまでもなく、そこにあるべきものが、あるべき形で機能していた。それが今は、居心地悪くも感じられた。
「セラのところに行くか」
「あたしも行く」
「いや、今日はいい。お前は現場を見ておいてくれ」
ミラは不満げな顔をしたが、頷いた。見るべき現場が今の誠には何ひとつなく、代わりに向かう先は、水路とは何の関係もない書類の山だった。
「監督。少し、よろしいですか」
セラの使いが来たのは、昼を過ぎた頃だった。誠は言われるまま、レオン邸の一室にある事務机の並ぶ部屋を訪ねた。書類の山に囲まれたセラは、誠が来ると顔を上げ、手近な椅子を勧めた。
「対策を詰めておきたいのです。監督の意見も聞いておきたくて」
「意見と言われてもな」
誠は椅子に腰を下ろしながら、正直に答えた。
「どうすればいいのか、さっぱりわからん」
セラが手を止めた。誠は続けた。
「現場でなら、何かがおかしければ視ればわかる。壁でも地面でも、崩れそうな場所には理由がある。理由がわかれば、直し方もわかる。今までずっと、そうやって片をつけてきた」
図面と現場さえあれば、誠には見えるものがあった。ひびの走り方、水の抜け方、荷重のかかり方。見て、判断して、動く。それだけで、大抵の問題は片がついた。だが今度の相手には、その手順が最初から通用しない。
「今回は、崩す手段が見つからない」
言葉にしてみると、自分でも意外なほど惨めに響いた。
「これまでは、現場の正しさが通ってきた。正しく造れば、正しく認められる。単純な話だと思っていた」
「それが、今回は違うと」
「ああ」
誠は椅子の肘掛けを軽く指で叩いた。癖のようなものだった。落ち着かない時、手が勝手に何かを確かめようとする。だが今は、確かめる対象がどこにもなかった。
三十五年、身体に覚えさせてきた手順があった。壁に手を当てる。地面を踏む。水の流れを目で追う。どれも、対象が物であればこそ効く手順だった。今、目の前にあるのは紙と印章と、誰かが書いた文言の並びだ。指を当てても、踏んでも、何も返ってこない。
「正直、情けない話だと自分でも思う」
セラに弱みを見せることに、誠は一瞬の躊躇いを覚えた。以前、休日のセラの部屋を訪ねた時のことが頭をよぎる。あの時は、セラのほうが誠に生活の不器用さを見抜かれ、弱っていた。今度は逆だ。誠のほうが、セラに自分の手の届かない領域を見せている。立場が入れ替わっただけで、これほど落ち着かないものかと、誠は自分でも意外に思った。
「監督」
セラの声は静かだったが、迷いがなかった。
「技術の正しさは、確かに大事です。でも、それはあくまで前提条件に過ぎません」
「前提条件、か」
「ええ。正しく造ったから通るというのは、実は最初から保証されていないんです。正しさの上に、もうひとつ、別の土俵があります」
セラは机の上の書類を一枚、誠のほうへ滑らせた。数字がびっしりと並んでいる。
「規格、前例、実績データ。これが、書類の世界の土俵です。伯爵側は規格を盾に取ってきました。ならば私たちは、前例と実績で対抗します」
「前例というと」
「他領で似た工法が認可された事例を探します。逆打ち工法そのものは新しい呼び方でも、支保の考え方自体は他国にも存在するはずです。先例があれば、規格の解釈にも幅を持たせられる」
セラは指を一本ずつ立てながら、続けた。
「実績データも同じです。砦の橋を架け替えてから、堤を築き、峠に隧道を通し、この町の地面の下を通すまで。工期、事故件数、住民の暮らしの変化。数字にして積み上げれば、それ自体がひとつの発言力になります。規格の文言そのものを崩せなくても、その規格を厳格に運用する必要が本当にあるのか、という問いを立てることはできます」
「規格の解釈に、幅があるということか」
「そうです。規格は、守るための最低限を定めているだけで、それ以外の方法を一律に禁じているわけではない場合がほとんどです。伯爵側は、その幅を都合よく狭めて主張している。私たちは逆に、その幅の広さを示せばいい」
誠は黙って聞いていた。セラの言葉には、誠が知らない種類の段取りがあった。ひとつひとつは単純な理屈に思えるのに、組み合わせ方には誠が想像もしなかった順序がある。
「監督が現場で段取りを組むように」
セラは書類を軽く指で押さえ、誠を見た。
「書類にも、段取りがあります」
その一言が、誠の中で何かにかちりと嵌まった。
段取り八分。誠が現場で誰よりも大事にしてきた言葉だった。準備を怠らず、順番を間違えなければ、大抵のことは乗り越えられる。それは工事に限った話ではなかったのかもしれない。
セラの表情に、わずかな翳りが差した。
「私は、生まれのせいで貴族側からも平民側からも、距離を置かれる立場です。だからこそ、どちらの言い分にも極端に傾かずに済む。今回、その距離の取り方が、初めて役に立てる気がしています」
誠には、その言葉の重さの全部はわからなかった。だが、セラが普段見せない表情でそれを口にしていることだけは、はっきりとわかった。仕事の話をしているときのセラは、いつも早口で、迷いがない。今のセラは、言葉を選びながら、自分の内側を確かめるように話していた。
その声には、誠が知る限りの中で一番、静かな熱があった。孤立していた場所が、今は誠の役に立てる居場所に変わっている。誠にはその機微のすべてはわからなかったが、セラが今、何かに手応えを感じていることだけは伝わった。
「そうか」
誠は自分の膝の上で、拳をゆっくりと開いた。
「これも、段取りか」
完全に腑に落ちたわけではなかった。紙の上の戦い方を、誠はまだ体で覚えていない。だが、暗闇の中で足場になる一点を見つけたような感覚があった。手も足も出ない、という状態ではなくなっていた。
「今度は」
セラが書類を束ね直しながら、口の端をわずかに緩めた。
「私が、段取りを組む番です」
その言い方に、誠は思わず小さく笑った。柄でもないと思いながら、自分の中の何かが少し軽くなっているのがわかった。
「頼む」
短くそれだけ言うと、セラは満足そうに頷き、机の上の書類にまた目を落とした。ペン先が紙を滑る音が、部屋に規則正しく響き始める。誠にはできない仕事だった。だが、その音を聞いているだけで、何もできずにいた三日間より、いくらか呼吸が楽になった気がした。
窓の外では、検収を終えた水路の上を、荷車が何事もなく行き交っている。誠の腕が造ったものは、確かにそこで機能していた。だが今、誠がすべきことは、その腕を振るうことではないらしかった。
段取りが違うだけだ。
そう自分に言い聞かせても、まだ慣れない重さが胸の底に残っていた。
現場の外にも、段取りを組む人間がいる。
そのことに、誠はようやく気づき始めていた。
次回の更新は、9月23日 21:10を予定しています。
【お願い】
もし面白かったら、下のブックマーク(★)や評価で応援いただけると非常に励みになります!
(ブックマークは下の「ブックマークに追加」ボタンからお願いします)
【本作品のAI利用について】
本作品は「小説家になろう」の規定に基づき、生成AIを執筆・構成の補助として使用しております。
※本作品は「カクヨム」様にも掲載しております。




