第68話 現場監督、書面ひとつで止められる
祝宴の酒がまだ抜けきらないうちに、その使者はやってきた。
地下水路の完成祝いで町中が浮かれていた翌朝のことだ。誠は検収書類の写しを整理していた手を止め、レオンの応接間に呼ばれた。廊下を歩くだけで、昨夜の団子と麦酒の匂いがまだ袖口に残っている気がした。
部屋に入ると、レオンの表情がいつもと違った。
「誠、悪いが先に見てくれ」
机の上に、一通の書状が置かれていた。封蝋は見慣れないものだった。金糸で縁取られた紋章が、蝋の中に沈んでいる。
「ヴァレンス伯爵家の印章です」
セラの声がした。いつの間にか部屋の隅に控えていたらしい。呼ばれて来たのか、レオンが先に呼んでいたのか、誠にはわからなかった。表情はいつも通り平静だったが、書状を見る目だけが、わずかに硬い。
「読んでもらえるか」
レオンが言った。誠は封を切り、セラに渡した。自分で読むより、行政の言葉に慣れたセラに読ませたほうが早いと、判断するより先に体が動いていた。
セラは書状を広げ、目を通し、それから声に出して読み上げ始めた。
「――貴地における水路施工に関し、支保工の設置間隔が王国標準規格に適合しない疑いあり。加えて排水勾配の算定根拠が確認できず、施工全体の安全性に懸念あり。よって認可の一部を留保し、該当区画の再検査を要求する」
声は淡々としていたが、一語ずつが石のように重かった。
「再検査の結果次第では、追加費用および工期延長分の罰金をレオン=クロイツェン辺境伯家に請求する場合がある、とも」
誠は書状の実物を覗き込んだ。文字は達筆で、余白まで美しく整えられている。印章は二つ。伯爵家のものと、王都の何らかの機関のものらしい別の印。
支保工の間隔。排水勾配の算定根拠。
どちらも、誠が自分の手で数値を決め、バルドたちに指示を出し、【大地審眼】で幾度も確かめた項目だった。
「間違ってない」
声に出してから、誠は自分がそう呟いていたことに気づいた。
支保の間隔は、地質と地下水位を踏まえて自分で計算し直した数字だ。配管の勾配も、逆流を起こさないぎりぎりの余裕を見て決めた。検収の日、セラの立ち会いのもとで一項目ずつ照らし合わせ、判子まで押してもらっている。
間違っていない。
だが、それをどう示せばいいのか、誠にはわからなかった。
目の前の壁を、指でなぞればひびの位置がわかる。地面を踏めば、締固めが足りているかどうか、足の裏が教えてくれる。【大地審眼】に意識を向けかけて、誠は途中で止めた。
紙には効かない。
当たり前のことのはずなのに、今更のように腹の底に落ちてきた。誠の目は、土や石や水には強い。だが目の前にあるのは、印章と署名と、誰かが書いた「疑いあり」の五文字だ。それを覆すための道具を、誠は持っていなかった。
拳を握った手のひらに、爪の跡がつくのがわかった。視線をどこに置けばいいのかわからず、書状の余白と、レオンの顔と、セラの手元とを、意味もなく行き来した。
現場でなら、こんな顔はしない。
問題が起きれば、まず見る。次に測る。それから段取りを組み直す。三十五年、いや前世からの分を数えれば、それ以上か。体に染みついた順番があるはずだった。だが今、誠の中でその順番は、最初の一歩から動かなかった。見るべき対象が、地面でも壁でもなく、紙の上の文字の並びだったからだ。
視れば直せる。踏めばわかる。誠の腕はそういう腕だった。だが指先で紙をなぞっても、繊維の質感が伝わってくるだけで、そこに書かれた「疑いあり」の重みは、指では測れなかった。
ふと、遠い記憶が差し込んだ。
現場事務所の蛍光灯。机の向こうから飛んでくる、根拠のない一言。「間に合わせろ。方法は聞かない」――あの声には、今思えば紙一枚の重みさえなかった。それでも従うしかなかった。あの時も、誠は自分のやり方が正しいと信じていた。信じていることと、それが通ることの間には、いつも誠の手の届かない距離があった。
今度は、紙一枚が相手だった。
「はっ、ふざけないでよ!」
叫んだのはミラだった。いつからそこにいたのか、部屋の入り口で拳を握りしめている。
「監督が、どれだけ確かめて造ったと思ってるの! 【大地審眼】で何べんも見て、あたしだって地面締めるの手伝ったのに、それを紙切れ一枚で疑いありって、何様のつもり――」
「ミラ」
誠は短く名を呼んだ。それだけで、ミラの声が止まる。
「落ち着け」
言いながら、誠自身の声も、思ったより掠れていた。取り繕おうとして、余計に不自然になったのが自分でもわかる。
ミラは口をつぐんだが、握った拳は緩まなかった。誠を睨むような目ではなく、書状そのものを睨みつけていた。その目の縁が、少しだけ赤い。
「……監督が、噓ついてるわけない」
さっきまでの荒さが抜けて、戸惑いに近い声になっていた。
「あたし、地盤締めたとき、ちゃんと視た。監督の色も視た。緑だった。あれ、大丈夫な色でしょ」
「ああ」
「なのに、なんで」
問いの形をしていたが、答えを求めている声ではなかった。誠にもわからないことを、誠にぶつけている自分に、ミラ自身も気づいているような響きだった。
誠は何か言おうとして、言葉に詰まった。ミラが求めているのは説明ではなく、誠がいつも通りの顔でいることだと、遅れて気づいた。今の自分の顔が、いつも通りではないことにも。
その隣で、セラだけが冷静だった。書状を机に戻し、指先で紋章の部分をなぞる。
「監督。これは、正直に申し上げます」
「ああ」
「技術的な妥当性は薄いと思います。支保の間隔も勾配の根拠も、私が立ち会って確認した数値と食い違う点は、この文面からは読み取れません」
誠は詰めていた息を、わずかに吐いた。だがセラの表情は緩まなかった。
「ですが、無視はできません」
「……どうしてだ。中身が正しいなら」
「正しさの話ではないからです」
セラは書状に押された二つ目の印章を指さした。
「これは、王都の監理機関の副署が入っています。伯爵家単独の言いがかりではなく、形式上は正規の手続きを踏んだ指摘、という体裁を整えてある。中身の当否より先に、この手続きそのものを崩さない限り留保は動きません」
「技術で殴れないってことか」
誠が呟くと、セラは初めてわずかに目を細めた。
「そう言い換えていただけるなら――はい。これは、技術の話じゃありません」
短い沈黙が落ちた。
「格の話です」
その一言は、書状よりも重く部屋に沈んだ。誠は返す言葉を持たなかった。現場で積み上げた確かさが、初めて、確かさのまま無力になっていくのを感じた。
レオンが、腕を組んだまま長く息を吐いた。
「厄介なところに目をつけられたな」
その声には、いつもの飄々とした軽さがなかった。誠が叙爵を受けてからというもの、レオンは何かにつけて軽口を挟む男だったが、今はただ、書状の紋章を睨みつけている。
「伯爵と、面識は」
「ない。あちらの領地は北寄りで、うちとは接点が薄かった。だが――」
レオンは言葉を切り、指で机を軽く叩いた。
「一代の騎士爵風情が、辺境伯領のインフラを一手に任されている。そのことが、面白くない連中は一定数いる。今までは黙って見ていた連中が、成果が積み上がったところで、ようやく重い腰を上げた。そんなところだろうな」
「俺個人の話じゃない、ってことか」
「そうであってほしいが」
レオンは短く笑ったが、目は笑っていなかった。
「今のところは、な」
窓の外では、昨夜の祝宴の後片付けをする声が、まだのどかに続いている。子供が誰かに叱られて笑う声。荷車の軋む音。その明るさと、机の上の書状の重さとが、あまりにも釣り合わなかった。
誠は、もう一度書状に目を落とした。読み返しても、そこに書かれた文字は一文字も動かない。
どれだけ地面を確かめても、通じない相手がいる。
その事実だけが、いやに鮮明に残った。
次回の更新は、9月22日 21:10を予定しています。
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