第80話 現場監督、次の嵐を見据える
あれから五日が経った。
会議室の空気は、以前より幾分か軽くなっていた。誠が椅子に腰を下ろすと、セラが書類を整理しながら小さく笑った。
「伯爵家からの返答がまた遅れているそうです」
「三度目だな」
レオンが肘掛けに頬杖をついた。呆れとも安堵ともつかない声だった。
「実測値を出し直すと言ってから、もう五日だ。よほど都合の悪い数字でも出たか、それとも単に焦っているだけか」
「おそらく両方でしょう」
セラが淡々と答えた。書類をめくる手には、以前のような余裕のなさは感じられない。
「監督が見抜いた矛盾は、書状全体の信頼性に疑義を投げかけました。相手は今、他の指摘についても実測の裏付けを求められないよう、慎重に進めるほかない状況にあります。急がば回れ、を強いられているわけです」
レオンが誠を見た。
「お前の一手が、じわじわと効いている。ボディブローのようにな」
「決定打じゃない、って言ってたのはセラだろ」
「決定打ではありません」
「ですが」
セラが顔を上げた。その目には、この数か月で誠が見たことのない静かな確信があった。
「決定打でなくとも、積み重ねれば流れは変わります。この一件が始まった頃、私はただ書状に振り回されるだけでした。ですが今は、こちらから相手の足元を崩す側に回っています」
「セラの手腕あってのことだ」
レオンが言葉を継いだ。
「他領の前例を調べ上げ、条文の成立過程まで遡り、証言を積み上げる。お前がいなければ、俺は書状の文言に怯えるだけの領主だっただろう」
セラが一瞬、言葉に詰まった。褒められることに慣れていないのだろう、視線がわずかに泳ぐ。
「……過分なお言葉です」
「事実を言ったまでだ」
レオンは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「思えば、伯爵家から書状が届いた頃のお前は、いつも一人で書類を抱え込んでいた。誰かに相談することもせず、失敗を恐れて完璧を求め続けていたように見えた」
「……お恥ずかしい限りです」
「恥じることはない。だが今は違う。監督の眼を借り、俺の権限を使い、それぞれの得意分野を持ち寄って一つの答えを出す。そのやり方を身につけたのは、お前自身の力だ」
セラは俯いたまま、しばらく黙っていた。やがて小さく、けれどはっきりと言った。
「……ありがとうございます」
その声には、これまでの張り詰めた響きとは違う、柔らかさが滲んでいた。
誠はその遣り取りを聞きながら、静かに息を吐いた。この一件が始まったとき、自分にできることはほとんどないと思っていた。殴り合いなら現場で鍛えた腕がある。だが政争は違う。書面と手続きと人の思惑が絡み合う戦場で、自分はただの傍観者になるしかないと感じていた。
だが違った。
現場で積み上げてきた数字と、その数字を疑わず信じ続けた執念が、思いがけない形で役に立った。殴れない戦いが、たしかに存在する。そしてその戦いでも、自分は無力ではなかった。
それは、これまで誠が信じてきた「現場に立つことでしか価値を証明できない」という考え方を、静かに揺さぶるものだった。図面を睨み、土を触り、身体を動かして初めて仕事だと思っていた。だが今回のように、机の上で数字を突き合わせるだけの一手が、現場の何十人分もの働きに匹敵することがある。技術者としての誠実さは、どんな戦場に立っても裏切らない。そのことを、身をもって知った。
もうひとつ、この一連の出来事で得たものがある。誠は目を伏せ、あの夜のことを思い出した。誰にも打ち明けられずに抱え込んでいた重さを、初めて誰かに預けた夜。一人で背負わなくていいのだと、頭ではなく身体で理解した瞬間。あれから、朝起きたときの息の吸い方が少し変わった気がする。全部を自分一人で背負い込む癖は、まだ完全には抜けていない。だが、それに気づけるようになっただけでも、以前とは違う。
「ところで」
レオンが話題を変えるように言った。
「ヴォルン川の件だが、調査が進んでいる。北回りルートの経済的な利害関係者について、さらに詳しい構図が見えてきた」
「進展があったのか」
「ああ。伯爵の背後には、王都の一部商会が絡んでいる可能性が高いという報告が入った。まだ裏付けは足りないが、ダム計画が本格化すれば、その利害構造がより鮮明になるはずだ」
セラが補足するように言葉を継いだ。
「北回りルートは、現在の交易路よりも輸送効率が悪い。にもかかわらず伯爵家がそちらに肩入れするのは、通行税や中継拠点の権益を握っているからだと考えられます。ヴォルン川にダムができれば、南回りルートの水量が安定し、輸送能力が飛躍的に向上する。伯爵家にとっては、看過できない事態でしょう」
「つまり、今回の書状騒動も、その延長線上にあるということか」
「おそらくは。今はまだ状況証拠の域を出ませんが、ダム計画が具体的に動き出せば、伯爵家の焦りはさらに大きくなるはずです。そこにこそ、決定的な証拠が転がり込んでくる可能性がある」
レオンが軽く頷いた。
ミラが身を乗り出した。
「ダム計画って、あの、前に測量した?」
「ヴォルン川の候補地だ。あの現地調査で得た情報は、こちらの想像以上に価値があった」
レオンが誠を見た。
「ダム建設は、国家規模の事業になる。技術的にも政治的にもな。だが同時に、伯爵家の思惑を最終的に決着させる場にもなるだろう」
誠は、あの日の川の音を思い出した。ミラと並んで測った川幅、岩盤の露出、水の流れの癖。あのとき見た地形が、いずれ大きな構造物に姿を変える。想像するだけで、指先が疼くような感覚があった。
「本格的に動き出すのは、いつ頃だ」
「そう遠くない。準備が整い次第、正式に依頼することになる」
「望むところだ」
誠が答えると、ミラが目を輝かせた。
「次はもっと大きい現場だね! 私、もっと勉強しておく」
「頼りにしてる」
その言葉に、ミラが誇らしげに胸を張った。
セラが書類を閉じながら、静かに言った。
「伯爵家との一件は、まだ終わっていません。むしろ、これからが正念場でしょう。ですが」
彼女は誠とレオン、そしてミラを順に見た。
「以前のように、一人だけで抗う必要はもうありません。ここには、それぞれの得意分野を持ち寄れる者がいる」
レオンが頷いた。
「そうだな。誠、ミラ、セラ。この面子で乗り切れないなら、それこそ運が悪いだけだ」
誠は小さく笑った。数か月前の自分なら、こんな軽口に付き合う余裕もなかっただろう。今は違う。隣にいる人間の重さを、少しだけ信じられるようになった。
会議を終えて外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。帰り道、ふとハンナの店の前を通りかかる。窓越しに、忙しく働く彼女の姿が見えた。目が合うと、ハンナは軽く手を振ってよこした。誠も小さく手を上げて応える。それだけのやり取りに、以前より確かな温度があった。
「監督、なんだか顔つきが違う」
隣を歩くミラが、ふと言った。
「そうか?」
「うん。前は、いつも何かに耐えてるみたいな顔してた。今は……ちゃんと、前を見てる感じがする」
誠は少し考えてから、素直に頷いた。
「そうかもしれないな」
嵐は去っていない。伯爵家は必ずまた動く。国家規模のダム計画という、これまでとは比較にならない大きな現場も控えている。だが今の誠には、それを迎え撃つ足場がある。
積み上げた実績。信頼できる仲間。そして、一人で抱え込まなくてもいいという実感。
次の嵐がどれほど大きくとも、今度は違う。
誠は夕焼けに染まる街並みを見渡しながら、静かにそう思った。
次回の更新は、10月4日 21:10を予定しています。
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