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第66話 現場監督、暮らしの変わりを見る

最終区画の掘削が終わったのは、朝一番のことだった。


誠は【大地審眼】を全区間に向けた。地下に組み上がった支保の列、その隙間を埋める心象づけの層——どこを見ても、もう黄色も赤もない。青一色が、町の地下を覆っていた。


「終わったな」


バルドが隣に立ち、腕を組んだまま呟いた。


「仕上げの配管と蓋掛けが残ってる。それが済めば、正真正銘の完成だ」


「あと数日か」


「ああ。ここからは急ぐより、丁寧にやる段階だ」


誠は頷いた。工期の追い込みという言葉には、これまで焦りの響きがあった。だが今は違う。仕上げに向かう、落ち着いた緊張感だった。


*


昼過ぎ、誠はミラと連れ立って裏通りを歩いた。この工事が始まったばかりの頃に調査した、あの密集した路地だった。


路地に足を踏み入れた瞬間、誠はまず匂いの違いに気づいた。以前は奥まで進むほど鼻を突いた、あの湿った下水の臭いがない。代わりに、石鹸と、干された布の乾いた匂いが漂っている。


洗濯物が軒先に何列も干されている。日差しを受けて白く輝くシーツ、色とりどりの子供服。以前は下水の臭いが染みついていたはずのその一角に、今は洗いたての清潔な匂いだけが満ちていた。


「監督さん!」


声をかけてきたのは、以前この路地で洗濯物を干していた女だった。


「臭い、消えましたよ。ほんとに、嘘みたいに」


「側溝の流れが変わりましたからね」


「変わったなんてもんじゃない。うちの子、雨の日でも水たまり気にせず歩けるようになったんです」


その女の足元で、小さな子供が水はけの良くなった路地を、駆け回っていた。転んでも、そこはもう泥水の溜まる場所ではなかった。子供は転んで手をつき、砂埃を払って、また笑いながら走り出した。以前ならその手は、間違いなく泥で汚れていたはずだった。


「前は、雨が降るたびに、この辺一帯が臭くて」


別の家の主婦も加わってきた。


「洗濯物、外に干せない日も多かったんですよ。それが今は、毎日晴れた日と変わらない」


「うちの亭主も言ってたよ。夜、窓開けて寝られるようになったって」


年配の女が笑いながら言う。


「前は臭くて、真夏でも窓閉め切ってたのに」


口々に語られる小さな変化の一つ一つが、誠の胸に積み重なっていった。悪臭が消えたという、たった一つの事実の裏に、これほど多くの暮らしの手触りが変わっていたとは、正直、想像しきれていなかった。


誠は【大地審眼】でその路地の地下を確認した。以前は赤く発光していた基礎の一角も、今は落ち着いた青に変わっている。目には見えない場所の色が変わったことで、目に見える暮らしの色まで変わっていく。誠が前世で何百回と経験してきたはずの実感が、今日はまた違う重みを持って胸に落ちてきた。


「これも、監督さんたちのおかげです」


女が深々と頭を下げた。誠は少し照れくさくなって、頬をかいた。


「俺一人の仕事じゃありません。バルドたちの手も、たくさん入ってる」


「それでも、決めたのは監督さんでしょう?」


ミラが横で、誇らしげに胸を張っていた。誠は苦笑しながら、その場を後にした。


*


その足で、誠とセラは、あの三軒のうちの一軒を再訪した。長年その家に住み続けてきた、一人暮らしの老女の家だった。


戸口の前に立つと、庭先に置かれた鉢植えが目に入った。小さな花が幾つも咲いている。以前訪ねた時には気づかなかったものだった。手入れをする余裕が、少しずつ戻ってきているのかもしれない。


「また来たのかい」


戸口に出てきた老女は、以前ほど硬い表情ではなかった。だが完全に和らいでいるわけでもない、複雑な色を顔に浮かべていた。


「工事の様子を、お伝えに参りました」


誠は言った。


「基礎の補強、無事に終わりました。もう心配はいりません」


老女は、しばらく黙って誠を見ていた。それから、ゆっくりと戸口の脇の腰掛けに座り込んだ。


「……あんたが最初に来た時、正直、腹が立ったんだよ」


「はい」


「この家は、亭主と一緒に建てた家だ。何十年も住んできた。それを、地面の下がどうのこうのと言われて、掘り返される」


「怖かったんだよ。壊されるんじゃないかって。この家がなくなったら、あの人との思い出まで、一緒になくなっちまう気がしてね」


「……」


「けど、あんたら、ちゃんと毎日、様子を教えに来た。今日はここまで進んだ、明日はここをやる、って」


「掘り返される音がする度に、最初は胸がざわついたもんだけど、そのうち、慣れちまってねえ。あんたらが、いい加減な仕事はしないって、分かってきたからかもしれない」


「壊されるんじゃなくて、守られてるんだって、少しずつ分かってきたんだよ」


誠は何も言わず、老女の言葉を聞いていた。技術の判断は、【大地審眼】と知識だけで下せる。だがこの安心は、日々の説明の積み重ねでしか生まれないものだった。図面の正しさが、そのまま人の心を動かすわけではない。何度も足を運び、何度も同じ言葉を重ねて、初めて届くものがある。


「家は、変わらずここにある。それだけで、もう十分だよ」


老女はそう言うと、初めて小さく笑った。深い皺の奥に、確かな安堵があった。


「これからも、何かあれば言ってください」


「ああ。……ありがとうよ、監督さん」老女は鉢植えの花に目をやった。「この花も、久しぶりに世話する気になったんだ。前は、いつ壊されるかと思うと、何をする気にもならなかったからね」


セラが横で、静かにその言葉を書類に書き添えていた。誠はふと、隣を見た。セラの表情にも、いつもの実務的な硬さの奥に、何かを見届けたような柔らかさがあった。


*


夕方、現場に戻ると、バルドたちが道具を片付けながら、珍しく笑い声を上げていた。


「なあ、監督さんよ」


左官職人が声をかけてきた。


「祭りの神輿の土台、あれも無事に間に合ったぞ」


「それは良かった」


「あの時は、正直、監督さんに腹立ててたけどよ」


「終わってみりゃ、こんな仕事、他所じゃ出来やしねえ。この町の下に、これだけのもんが埋まってるなんて、誰も知らねえまま暮らすんだろうな」


年嵩の石積み職人も、道具を手入れしながら口を挟んだ。


「祭りの土台も、この工事の段取りも、両方ちゃんと形になった。俺も長いこと石積んでるが、こんな風に急かされて、しかもちゃんと帳尻が合ったのは、初めてかもしれねえ」


「監督が渡し方を覚えたおかげだ」


バルドがそう言うと、周りからどっと笑いが起きた。誠も苦笑いを浮かべるしかなかった。


バルドが、支保の列を見渡しながら言った。


「地下があれだけしっかりしてりゃ、この町はもう何十年も持つ。……悪くない仕事だった」


その一言に、誠は胸の奥が温かくなるのを感じた。技術の正しさだけでなく、それを受け取った人間たちが、誇りとして持ち帰ってくれている。数日前まで軋んでいた現場が、今はこうして笑い合える場所になっていた。


*


日が沈みかける頃、誠はミラ、セラと共に、仕上げを待つばかりとなった通りを歩いた。


洗濯物の匂い、子供の声、老女の小さな笑み、職人たちの笑い声——今日見てきたものが、順に頭をよぎった。地面の下の色を診断することと、こうして人の暮らしが変わっていく様を見ることは、まるで別の仕事のようでいて、根っこのところで一本につながっている。誠は今更ながら、そのことを実感していた。


「監督」


「なんだか、いつもより疲れた顔、してない?」


「悪い疲れじゃないさ」


誠は静かに答えた。地面の下を診断するだけなら、今日一日で終わる仕事だ。だがそれが人の暮らしに馴染むまでには、もっと長い時間と、もっと多くの言葉が必要だった。


セラが、ふと足を止めた。


「……完成まで、あと少しですね」


その声に、いつもの落ち着きが戻っていた。だがほんの一瞬、遠くを見るような間があったことに、誠は気づかないふりをした。


町の明かりが、一つ、また一つと灯り始めていた。


その灯りの数だけ、誰かの暮らしが、静かに続いている。

次回の更新は、9月20日 21:10を予定しています。


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