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第65話 現場監督、見えない敵を知る

地下構造の掘り下げは、三段目に差しかかっていた。


誠は【大地審眼】で進捗を確認しながら、今日も現場を回っていた。ミラの心象づけは狭所にも順応し、バルドの職人たちと下請けの間にはもう軋みがない。掘削の音も据え付けの号令も、日を追うごとに揃ってきていた。工事そのものは、これ以上ないほど順調だった。


朝の光が支保の隙間から差し込み、掘り下げられた地面に縞模様を落としている。誠はふと、数日前セラが残した一言を思い出した。早すぎるのも考えものかもしれない——あの時は、意味を測りかねていた。


「監督、お客様です」


セラの声に振り返ると、見覚えのある顔が、供を一人連れて現場の入り口に立っていた。


*


「お邪魔しますよ、現場監督殿」


デニスは相変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。だが以前とは、目の向け方が違っていた。工事そのものにはほとんど視線を寄越さず、代わりに手にした書類の束をぱらぱらとめくっている。


「今日は工事の視察ではないんですか?」


「もちろん視察の一環です。ただ、今回は書類の方を拝見しに」


デニスは一枚を抜き出し、誠の前に広げた。


「この許認可申請書、日付の書式が古い様式のままですね。先月からヴァレンス伯爵領内の統一書式が変わったのはご存知でしたか」


「……いえ、初耳です」


誠は返答に詰まった。技術の話であれば、【大地審眼】と経験で対応できる。だがこれは、誠の知識がまるで届かない領域だった。地面の下の色は視えても、書類の上の規定は視えない。


「知らなかったでは済まされません。書式の不備は、審査の遅延に直結しますので」


デニスは次の書類を取り出した。


「こちらの申請、押印の位置が指定の枠から半分ほどはみ出しています。些細なことですが、規定は規定です」


「……」


「それから、こちらの資材調達申請には、発注者の署名欄に爵位の記載がありませんね。轟殿は既に叙爵されているはずですが」


デニスはさらに三枚目、四枚目と書類を並べていく。一枚は工程変更届の提出先の部署が旧組織名のままであること、もう一枚は資材調達の見積書に単位表記の統一漏れがあることを、いちいち指先で示しながら指摘した。傍らに控えた供の職員が、その都度小さく頷いてみせる。誠には、その頷きが何かの合図のように見えた。


「これも、これも」


デニスは机代わりの木箱の上に、五枚の書類を扇のように広げて見せた。


「一つ一つは軽微です。ですが、これだけ重なりますと」


一つ一つは、確かに些細だった。だがデニスは、それを一枚、また一枚と積み重ねていく。慇懃な口調の底に、以前にはなかった含みが混じり始めていた。誠は書類の山を見下ろしながら、技術の現場でこれほど無力さを感じたことはなかったと思った。


「これだけの数の不備が重なりますと、こちらとしても、認可の再確認を上に上げざるを得ません」


その一言に、誠はようやく相手の狙いに気づいた。技術ではなく、手続きの隙を突いて、工事の足を止めようとしている。


「工事に、影響が出ると?」


「さて、それは書類次第です」


デニスは微笑んだまま、書類を丁寧に束ね直した。


「私は、ただ規定通りに確認しているだけですので」


*


「その署名欄の件ですが」


黙って聞いていたセラが、初めて口を開いた。


「叙爵者の署名に爵位の記載を義務づける規定は、貴族間の契約書に限られます。発注者としての資材調達申請は、実務上の書式であり対象外です。第十二条の但し書きをご確認ください」


デニスの手が、一瞬止まった。


「……押印の位置につきましては」


「規定の枠内に印影の中心が収まっていれば良く、枠からのはみ出しそのものは不備に当たりません。過去、同様の申請で差し戻された例はございません」


「日付の書式の件も」


「統一様式への移行猶予期間は、通達から三月です。移行はまだ来月まで、旧様式での提出は問題ありません」


デニスが続けて示した工程変更届についても、セラは即座に応じた。


「提出先の部署名は、統廃合前の旧名称でも受理される旨、通達に付記がございます。見積書の単位表記も、木材・石材それぞれの慣習表記が併存を許されている品目です。いずれも規定の範囲内です」


淀みのない反論だった。誠はそれを黙って聞きながら、内心で舌を巻いた。デニスが積み上げた五枚の不備は、一つ残らず、根拠となる条文を示して崩されていく。まるで、あらかじめ全ての反論を用意していたかのような速さだった。


デニスの笑みが、わずかに硬くなった。


「……詳しいですね、セラ殿は」


「実務ですので」


「実務、実務、と」


「セラ殿は、平民の出でありながら、よくそこまで法規に通じておいでだ。感心しますよ、本当に」


言葉の表面は褒め言葉だったが、その下に「所詮は平民が」という響きが透けていた。誠は奥歯を噛んだ。


セラは表情を変えなかった。


「お褒めいただき、光栄です」


その淡々とした返しに、デニスの方が先に目を逸らした。


技術も、実務も、デニスは敵わない。それでも最後には、生まれの話に逃げ込もうとする。誠は思い返した。初めてデニスが視察に現れた日も同じだった。実力で敵わないと分かった途端、話は決まって出自や体裁に戻っていく。叩き上げの強さと、血筋にあぐらをかいた者の脆さ——あの日から見てきた対比が、今日、最も鮮やかな形で立ち現れていた。


セラは、平民の出でありながら、伯爵領の法規を隅々まで頭に入れている。誰に強いられたわけでもなく、自分の足場を守るために、自分の力だけでそれを積み上げてきたのだろう。デニスは、生まれの高さの分だけ、そういう積み上げをせずに済んできた人間なのかもしれない。実務の勝負では、その差がそのまま出る。


*


「今日のところは、これで失礼しましょう」


デニスは供に目配せし、書類を全て懐にしまい込んだ。踵を返しかけたところで、ふと足を止める。


「監督殿」


「なんです」


「工事が早いのは、結構なことです。ですが……早すぎる仕事というのは、時に、見えない場所で恨みを買うものです」


「恨み、というのは」


「さあ」


「私には分かりかねます。ただ、伯爵家の中にも、峠道の一件で商いの旨みを失った方々がおられるとだけ、申し上げておきます」


デニスは、それだけ言い残すと、今度こそ現場を後にした。柔らかい物腰は変わらないまま、その言葉だけが妙に重く、二人の間に残った。


「……含みのある言い方だな」


誠が呟くと、セラが小さく息を吐いた。強張っていた肩が、ようやく緩んだように見えた。


「今日は、書類の不備を探しに来ただけです。おそらく、次に来る時は違う手を使ってくるでしょう」


セラの声に、これまでにない緊張があった。


「北の迂回路の件か」


「……分かりません。ですが、峠道が開通したことで損をした者がいるのは事実です。デニスの後ろに、その方々の影がちらついています」


誠は言葉を失った。地面の下の色なら、危険も弱点も見て取れる。だが人の思惑が絡み合う場所には、視るための力など何もなかった。


工事は順調だった。地下の骨組みは、今日も一段、また一段と組み上がっている。


だが地上では、目に見えない別の骨組みが——誠にはまだ形の分からない何かが、少しずつ組まれ始めていた。

次回の更新は、9月19日 21:10を予定しています。


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