第63話 現場監督、渡し方を教わる
朝礼前、誠は補強区画に一人で立っていた。
【大地審眼】を四本目の支保予定地に向ける。昨日バルドと詰めた新しい配置——間隔を詰め、隣接建物側に一本増やす案。色は落ち着いた青一色だった。判断は間違っていない。
問題はここから先だ。
工期が延びるということは、紙の上の日付が一つ動くだけでは済まない。資材の追加発注、職人の割り振り、他の現場との掛け持ちの都合——誠がペン一本で書き換えた予定表の裏に、何十人分もの生活の段取りがぶら下がっている。
朝礼場に向かう道すがら、その空気はもう漂っていた。
「聞いたか、四本目のあれ」
「間隔詰めるらしいぞ。てことは日数も」
誠が着くと、声はぴたりと止んだ。止んだこと自体が、もう答えだった。
*
朝礼が終わるなり、一人が前に出てきた。四十絡みの左官職人だった。
「監督さんよ、工期が延びるって話、本当か」
「本当だ。四本目の支保が、想定と違う荷重を受けてる。間隔を詰めないと危ない」
誠は淡々と告げた。技術の説明としては、それで十分なはずだった。
「危ないってのは分かるさ。分かるがな」
職人は舌打ちに近い息を吐いた。
「俺は来週から別の現場に入る約束、もうしてんだよ。ここが延びりゃ、両方に穴が空く」
「掛け持ちの都合か」
「そうだ。こっちは日銭で食ってんだ、監督さんみたいに一つの現場にどっぷりってわけにゃいかねえ」
言葉に棘があった。誠が咎める間もなく、今度は若い職人が横から口を挟む。
「俺だってそうすよ。手間賃、日割りでもらってるんです。工期延びた分、誰が埋め合わせしてくれるんすか」
「延びた分の手間は、当然こっちで見る」
「言葉だけならなんとでも」
その一言に、周りの空気がわずかに冷えた。誠は奥歯を噛んだ。
輪の後ろから、年嵩の石積み職人がぼそりと付け加える。
「若いのは掛け持ちの都合だけで済むからまだいい。俺なんぞ、隣町の祭りに合わせて材料を先渡ししちまってんだよ。今更取り戻せる分じゃねえ」
「祭り、というと」
「秋祭りの神輿の土台だ。毎年うちの組が請け負ってる。工期がここまで食い込むと、両方に人を出せねえ」
誠は返す言葉に詰まった。技術の話に、地元の祭りの支度まで絡んでくるとは考えていなかった。段取りとは、目の前の現場だけを見て組むものではないのだと、今更ながら思い知らされる。
技術は正しい。段取りも組み直している。それなのに、目の前の人間は誠の言葉を信じきれていない。前世なら、上から降りてきた工程変更に現場が唸りながらも従うのが当たり前だった。ここでは違う。誠の言葉一つが、そのまま誰かの財布の中身に、誰かの祭りの支度に、そのまま直結している。
押し通すだけでは、動かない。
*
「揉めてんな」
バルドが割って入ってきたのは、そのときだった。太い声が場の空気を一段低く押さえつける。
「お前ら、監督が理由もなく延ばしてるとでも思ってんのか。四本目の下、見たろうが。あれ放って崩れたら、延びるどころの話じゃすまねえぞ」
職人たちは黙った。だがバルドはそのまま誠に向き直った。目つきが変わっていた。
「だがなあ、監督よ」
急に距離を詰めた口調に、誠は身構えた。
「間隔詰めるって話、俺には昨日の夕方にしか聞いてねえ。段取り八分たあお前の口癖だろうが。組み直しの図面出すのが遅すぎんだよ」
「バルド、それは——」
「言い訳はいい。石工の割り振り、俺が一晩でやり直したんだぞ。他の下請けにも頭下げてな」
「診断が出た時点で、すぐに動いたつもりだった」
誠は言葉を選んだ。
「だが図面に落とすまでに一晩かかった。その一晩の差が、こっちに全部しわ寄せしてるってことか」
「分かってんなら話は早い」
バルドは腕を組んだ。
「お前は地面の下は誰よりも速い。だが地面の上に出た途端、途端に鈍くなる。診断と同じ速さで、人にも渡せ」
痛いところを突かれた。誠は何も言い返せなかった。
バルドの言い分は正しかった。誠は技術判断の速さにばかり気を取られ、その判断を職人たちの手に渡すまでの時間を詰め切れていなかった。診断は速い。段取りへの落とし込みが遅れた。
「悪かった」
誠は素直に頭を下げた。
「診断から図面までの間、もう一段早くする。今回は俺の詰めが甘かった」
「分かりゃいい」
バルドは鼻を鳴らしたが、それで終わりにはしなかった。懐から丸めた紙を取り出し、地面に広げる。
「その代わり、こっちも一晩で叩いた案がある。掛け持ちの奴らを先に外の作業に回して、四本目周りは俺の直属だけで固める。日数の食い込みは、今より三日は縮む」
誠は紙面に目を落とした。工程の割り振りが、誠が昨夜組んだものより一段緻密だった。誰がどの区画で、いつまでに何をするか——数字ではなく、バルドが顔を思い浮かべながら組んだ配置だと分かる粒度だった。
「……これは良い」
「当たり前だ。三十年、こういう帳尻合わせで飯食ってきたんだよ」
バルドが職人たちを振り返る。
「聞いたか。掛け持ちの奴は外回りに回す。手間賃の埋め合わせも監督が見る。それで文句あるか」
左官職人が誠を見た。まだ完全な納得ではない、値踏みする目だった。
「……分かった。それで頼む」
「悪かったな、監督さんによ」
若い職人がぼそりと付け加える。
石積みの年嵩の職人だけは、まだ腕を組んだままだった。
「祭りの分はどうなる」
「そっちも今日中に案を出す。悪いが半日だけ待ってくれ」誠は頭を下げた。「今度は、俺から先に動く」
年嵩の職人は、しばらく誠の顔を見ていたが、やがてふん、と息を抜いた。
「……まあいい。約束、忘れんなよ」
誠は頷いた。技術で押し通そうとして、押し通せなかった一日だった。バルドの一言と、地面に広げられた一枚の紙が、誠一人の判断を現場全体の段取りへと変えてくれた。
*
昼過ぎ、ミラが水筒を片手にやってきた。日差しが強くなり、支保の木材から松脂の匂いが立ち上っている。誠は水筒を受け取り、ぬるくなった水を一息に飲んだ。喉の渇きよりも、朝からの気疲れの方が深く残っていた。
「監督、朝から怖い顔してた」
「バルドに一本取られた」
誠は苦笑した。ミラが首を傾げる。
「地面の下より、地面の上の方が難しい?」
「そうだな」
誠は支保の列を見やった。
「地面の下は、色さえ見えれば答えが一つに決まる。だが人を動かすには、答えが正しいだけじゃ足りない。渡し方も、渡す速さも要る」
「監督が全部一人で決めなくても、いいのに」
その一言が、思いのほか深く刺さった。前世から抱えてきた癖だ。判断は自分の中で完結させ、あとは指示として下ろすだけでいい——そう思ってきた。現場で誰よりも早く答えを出せることが、誠にとっては誇りであり、同時に一人で抱え込む理由にもなっていた。
だが今日、バルドが自分より速く、自分より現場に合った段取りを組んでみせた。石積みの年嵩の職人が案じていたのは、支保の強度でも工程の日数でもなく、秋祭りの神輿の土台だった。誠の【大地審眼】がどれだけ地面の下を見通しても、その色は視えない。
「……そうだな。一人で決めて、一人で渡すんじゃなく、渡す前に聞く相手を増やす。それも段取りのうちか」
「監督、また新しいこと覚えた顔してる」
ミラが笑った。誠も釣られて頬を緩めた。
*
夕方、支保の列に西日が差し込む頃、セラが現れた。手には書類の束。
「工期延長、正式に承認が下りました。レオン様の裁可印です」
誠は書類を受け取り、目を通した。数字の上でも、ようやく地に足がついた。
「助かる。これで職人たちにも、堂々と説明できる」
「今日、揉め事があったと聞きました」
誠は苦笑いを浮かべた。
「バルドに一本取られた。診断と、渡し方は別物だと」
「渡し方、ですか」
「答えを出す速さじゃなく、答えを届ける速さの方だ。今日、それを思い知らされた」
セラは少しだけ目を細めた。何かを言いかけて、やめたようだった。かわりに、表情に、わずかな翳りが差していた。
「一つだけ、耳に入れておきます」
「なんだ」
「工期延長の件、もうヴァランス伯爵家の耳にも届いているようです。……歓迎する話として、ではないと思います」
西日が、セラの横顔に長い影を落とした。
「珍しい光景」と言った、あの使者の目を思い出す。
現場は今、片づいたばかりだった。
だが、外の風向きは、まだ片づいていない。
次回の更新は、9月17日 21:10を予定しています。
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