第58話 現場監督、赤信号の下で暮らしを知る
朝、誠はミラを連れて町の裏通りを歩いていた。
表通りの賑わいとは違う、建物同士が肩を寄せ合うように建ち並ぶ一角だった。軒先が触れそうなほど近く、道幅は荷車一台がやっと通れるほどしかない。日差しが届かず、湿った石畳がひんやりと足裏に伝わる。どこかで鍋を火にかけている匂いが漂ってきた。壁の隙間から差し込む細い光の筋だけが、路地の奥行きをかろうじて教えてくれる。
「こっちは、なんか薄暗いね」
「日が入らないからな。ずっとこんな造りだったんだろう」
誠は足元に目を落とし、【大地審眼】を広げた。石畳の下、側溝の帯に沿って昨日と同じ黄色が続いている。予想通りだった。誠は次の路地へ足を進めた。
歩くほどに、誠の中で町の姿が変わっていった。表通りから見える賑わいは、この裏側にある無数の暮らしに支えられている。一軒一軒の下に、誰かの寝床があり、台所があり、子供の声がある。表通りを歩いているだけでは、決して見えてこない層だった。
三軒目の角を曲がったところで、視界の色が変わった。建物の基礎の際に、点のような赤が滲んでいる。
誠は最初は軽く見ていた。古い建物だ。どこかしら傷みはあるだろう。この程度の認識だった。だが目を凝らすと、赤は一点ではなかった。基礎の継ぎ目に沿って、細く連なっている。
誠は足を止めた。
地面の劣化ではない。建物そのものが、もう限界に近い。
誠は壁に手を当てた。表面はただの古い石壁だ。だが【大地審眼】の視界の中では、その内側が鈍く赤く発光している。息を止めて、もう一度見た。
(間違いない)
誠は視線を上へ動かした。一階の壁、二階の壁、屋根の下まで。赤は途切れず続いていた。柱の根元、梁の継ぎ目、床板の下。目に映る箇所すべてに、じわりと発光が広がっている。まるで建物そのものが、内側から静かに悲鳴を上げているようだった。
誠の背筋が冷えた。これは「掘ったら傾くかもしれない建物」の話ではない。今この瞬間、既に危うい状態の建物の話だ。
二階の窓から、洗濯物が下がっているのが見えた。奥からは子供の声がする。誰かが、まだ何も知らずにこの中で暮らしている。
「監督?」
ミラが誠の顔を覗き込んだ。誠が動きを止めたまま黙っているのに気づいたらしい。
「……この建物、視てみろ」
ミラは目を細め、しばらく壁を見つめた。土魔法使いのミラにも、うっすらとした違和感は伝わるようだった。
「なんか、変な感じがする。でも、あたしは監督みたいには視えないし」
ミラは自分の掌を見つめ、少し悔しそうに眉をひそめた。土魔法で地面の感触を探ることはできても、【大地審眼】のように内部の状態を色で判別することまではできない。
「基礎が赤だ。しかも一点じゃない」
「それって……」
「今すぐ崩れるわけじゃない。だが、下手に近くを掘れば、揺れ一つで建物が全部持っていかれる」
誠は建物を見上げた。石積みの隙間から、雨だれの跡が何本も垂れている。何十年もかけて水が染み込み、内側から弱ってきた壁だ。人の目には、ただの古い家にしか見えない。
誠は洗濯物を見上げた。
「掘削の話をする前に、ここに人が住んでるって話の方が先だ」
ミラは黙って、二階の窓を見た。
「診ないと分からなかった、ってことだよね。ここに住んでる人は、たぶん誰も知らない」
「ああ」
誠は建物の輪郭を目でなぞりながら、頭の中で町全体の地図を思い浮かべた。この一角だけではないはずだ。同じような造りの建物が、他にも点在している。
「バルドのところへ行く。この件、俺一人の頭じゃ足りん」
歩き出しながら、誠は苦い記憶を思い出していた。前世でも、密集した市街地の工事はいつも神経を使った。図面上の数字だけでは測れない、そこに人が住んでいるという重さがあった。異世界に来ても、それは変わらない。
*
バルドの工房は木材と石粉の匂いに満ちていた。壁際には切り出したばかりの石材が積まれ、鑿の音がまだ空気に残っているようだった。誠が調査の結果を伝えると、バルドは太い腕を組んだまま眉間に皺を寄せた。
「基礎がやばいか。そりゃあ厄介だ」バルドは低く唸った。
「街道や砦とは勝手が違う。今回は、掘る場所のすぐ隣に人が住んでる」
「そりゃそうだ。町場ってのはそういうもんだ」
バルドは工房の隅から、古い図面の束を引っ張り出した。
「普通なら、まず穴を掘って、それから支えを組む。だが赤信号の出てる基礎の脇でそれをやったら」
「掘ってる最中に崩れかねん」
誠が引き取った。
「だな」
誠は図面を睨みながら、前世の記憶を探った。密集した都市部での地下工事で使われる、通常とは逆の手順を踏む工法があったはずだ。上部の構造を先に作り、それに支えられながら下へ掘り進める。図面の隅々まで頭の中で組み立て直していくうちに、誠の頭の中で、何かが繋がった。
「……なら、順番を変えるしかない。上から先に……」
「順番?」
バルドが眉を上げた。
「先に支えを作ってから、掘る。地面より先に、建物ごと守る仕組みを組んでおく」
バルドは太い眉を寄せ、しばらく黙り込んだ。
「言ってる意味は分かる。だが、掘る前にどうやって支えを作る」
「そこで石工の腕の見せどころだ。柱でも壁でも、地上から打ち込める形で組めないか」
「……石積みでも木組みでも、地上からなら組める。問題は、それがどこまで地面の中を支えられるかだな」
「そこは俺が計算する。お前は、組めるかどうかだけ考えてくれ」
「どのくらいの規模を考えてる」
「まだ分からん。まずは今日診た一角、あの建物一軒分から試したい」
「一軒か。それなら、うちの若い連中で試させてみてもいいな」
「バルド。これ、いけるかもしれん」
「詳しく聞こうか」
「待ってくれ、まだ粗いんだ。今日中に、もう少し詰める」
バルドは口の端を上げた。
「妙な仕事を持ってくるのは、いつものことだな」
「悪いか」
「いいや。面白いな」
*
工房を出ると、日はすでに傾いていた。誠は町の方角を見た。まだ何も知らずに暮らしている人々の家が、あの路地の先にある。夕暮れの光に染まった屋根の連なりを見ながら、誠は今日診てきた赤い光の群れを思い返した。
「監督、さっきの話。今までとは、逆に作るってこと?」
「ああ。掘ってから支えるんじゃなく、支えてから掘る」
「そんなの、できるの?」
「できるかどうかは、これから詰める」
「今日診た建物、全部で何軒くらいあったの?」
「数えてないが、あの一角だけじゃない。町のあちこちに同じような建物があるはずだ」
「じゃあ、これからもっと見つかるってこと?」
「かもな」
「また新しいやり方、思いつくんだ。監督って、ほんと飽きないよね」
誠は思わず笑いそうになった。
「飽きてる暇なんかない。町一つ相手にしてるんだ」
ミラは満足げにうなずくと、少し先を歩き出した。誠は拳を握った。街道や峠道とは違う。今度は、失敗すれば人の暮らしそのものが崩れる。
「今度は俺が、仕様を決める側に回る番だ」
誠は町の灯りが一つずつ点り始めるのを見ながら、静かにそう呟いた。
次回の更新は、9月12日 21:10を予定しています。
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