第57話 現場監督、町の変化に気づく
クロイツェンの町は、以前より人が増えていた。
誠は商人のヴィムのところで資材の見積もりを済ませた帰り、雑踏の中を歩いていた。荷馬車が列をなし、露店の呼び込みが重なり合う。峠を貫通させてからというもの、北の迂回路に流れていた隊商の一部がこの町を通るようになったと、レオンから聞いていた。
ヴィムの店先にも、以前より多くの客が並んでいた。賑わいは、いいことのはずだった。
夕方に近い日差しが石畳を橙に染め、鍛冶屋の槌音と商人の呼び声が入り混じる。焼いた肉の匂いが露店から漂ってきて、腹が小さく鳴った。峠を越えてきたばかりらしい旅装の男が、荷を担いだまま物珍しそうに町並みを見上げている。
村の道普請から始まった仕事が、こうして人の流れを取り戻しているのを見ると、誠の中に静かな手応えが広がる。
だが数歩ごとに、鼻の奥に引っかかる臭いがある。
側溝の脇を通るたび、饐えたような、湿った臭気が立ち上る。足元を見れば、乾いているはずの路地の隅に、黒っぽい水たまりが残っていた。数日前に雨が降った様子もないのに。
「……こりゃ、ちょっとまずいな」
誠は立ち止まり、水たまりのふちにしゃがみ込んだ。指先で軽く土を払う。側溝の継ぎ目から、じわりと水が滲み出ている。
視界に、色が広がった。
路面の下、側溝に沿って、黄色の帯が続いている。ところどころ、小さな赤の点が混じっていた。峠の岩盤とは違う、もっと浅く、もっと広く、町全体に薄く伸びた綻びだった。
一本や二本ではない。
誠は立ち上がり、通りを見渡した。人が増えれば、水も使う。汚れも出る。町の下には、もう何年も前の造りのまま、追いつかない仕組みが埋まっている。
「地味に、悪いな……」
崩れる寸前の橋でも、抜けそうな峠でもない。だが放っておけば、いずれ疫病か、大雨のたびの浸水になる。誠にはそれが、はっきりと視えた。
誠が資材袋を担ぎ直したとき、後ろから声がかかった。
「監督」
振り向くと、セラが息を切らさない一定の歩調で歩いてきていた。
「レオン様が。屋敷に来てほしいと」
「今か?」
「今すぐでなくても構いません。ですが、急ぎの話だそうです」
誠はもう一度、足元の水たまりに目を落とした。
「ちょうどいい。俺も話したいことがあった」
セラは誠の視線を追って、水たまりに目をやった。
「……最近、増えましたよね。こういうの」
「気づいてたか」
「書類に苦情が上がってきます。悪臭がひどい、水が引かない、と。ただ、どこから手をつければいいのか、私には分かりませんでした」
「原因は一つじゃない。町が大きくなった分、下が追いついてない。それだけの話だ」
「それだけ、で片付けられる規模でしょうか」
セラの目が、通りの先まで伸びる路地を見渡した。誠は肩をすくめた。
「片付けるのは俺の仕事だ。原因が分かってりゃ、あとは段取りの問題だよ」
そういうと、誠はセラとともに辺境伯家の屋敷へ向かった。
レオンの執務室は、相変わらず質素だった。誠が入ると、レオンは机の書類を脇に押しやり、椅子を勧めた。
「悪いな、忙しいところ」
「いや。ちょうど町を見てきたところだ」
「なら話が早い」
レオンは苦笑した。
「臭いだろう、あそこら辺」
「ああ。側溝が追いついてないな」
「そうなんだ」
レオンは机の上に町の簡単な絵図を広げた。線が縦横に引かれ、いくつかの箇所に印がついている。
「峠を抜いてから、隊商が増えた。それ自体はいい。税収も上がってる。だが人も荷も増えれば、水も汚れも増える。もともとこの町の下水は、今の半分の人数を想定して造られたものらしくてな」
「たった半分?」
「先代の頃の話だ。今さら誰が設計したかなんて分からん」
誠は絵図の印を目でなぞった。密集した建物の間を、細い線が這っている。
「小さい浸水は、もう何度か出てる。雨が続くと、路地の低いところに水が溜まって引かない。臭いも酷くなる一方だ。放っておけば、そのうち熱病でも出かねん」
「俺のスキルでも診た。黄色が続いてる。ところどころ赤も出てる」
レオンの表情が引き締まった。
「町全体を見た上で、どうだ」
「正式に頼むということか」
「頼む。下水の刷新と、貯水の仕組みを地下に造れないかと思ってる。夏場の水不足も年々ひどくなってな。井戸だけじゃ心許ないって商人連中からも突き上げられてる。金は相変わらず潤沢じゃないが……お前がこれまでやってきたことを考えりゃ、任せない理由がない」
誠はしばらく絵図を見つめた。
「一つだけ、確認したい」
「なんだ」
「この町の建物、ほとんどが密集して建ってる。掘るとなりゃ、隣の家の土台のすぐ脇を掘ることになる。下手すりゃ家が傾く」
レオンは眉を寄せた。
「……そこまでは考えてなかった」
「峠の岩盤とも、川の堤とも違う。今度の相手は、人が住んだままの町そのものだ」
執務室に、短い沈黙が落ちた。
セラが横から口を挟んだ。
「許認可や住民への説明は、私の方で調整します。工事の中身については監督の判断に従いますので」
「町中となると、村や街道とは書類の量も違うだろう」
「慣れています。……それに、今回は本当にやり甲斐がありそうです」
セラは珍しく、少しだけ声に張りを持たせた。誠は軽くうなずくだけに留めた。
「頼む」
誠はうなずいた。ミラも今日はハンナのところに顔を出しているはずだ。町を丸ごと相手にするとなれば、この先、村の道普請とは違う頭の使い方が要る。段取りだけでなく、そこに暮らす人間一人ひとりの生活を、崩さずに直す段取りだ。
「請けよう」
「助かる」
レオンが手を差し出した。誠はその手を握った。
「ただし、まずは町の中を隅々まで診させてもらう。図面だけじゃ分からんことが多すぎる」
「そこは好きにしてくれて構わん」
執務室を出ると、外はもう夕暮れが近づいていた。町の灯りが一つ、また一つと点り始める。
屋敷の前でミラが待っていた。ハンナのところから戻る途中、誠を見つけて駆け寄ってきたらしい。
「監督、なんか難しい顔してる」
「難しい仕事を貰ったからな」
「また崩れそうな場所?」
「いや」
誠は路地の奥、まだ見ぬ地下の広がりに目をやった。
視えるのは、色だけだ。
だがその下に、何本もの通りと、何十軒もの暮らしが積み重なっている。
「町、全部が現場ってこと?」
ミラが首を傾げた。誠はうなずいた。
「ああ。今度は誰も避難できない。住んでるままの町の下を、掘る」
「……なんか、すごそう」
「すごいかどうかは知らんが、今までで一番、気を遣う仕事にはなる」
村の側溝に始まった仕事が、橋になり、街道になり、峠になった。そして今度は、これまでで一番、人の暮らしに近いところを掘ることになる。
誠は小さく呟くと、絵図を丸めた手に力を込めた。
「……さて。どこから掘るかね」
次回の更新は、9月11日 21:10を予定しています。
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