インタールード② セラ、弱音を吐き出す
休日の朝、セラ・ヴァンスの部屋には、誰かが暮らしている気配が薄かった。
寝台の上に畳まれた毛布は角が揃いすぎていて、逆に人の温もりを感じさせない。卓の上には書類の束が几帳面に積まれ、その隣に、食べかけのまま冷えたパンが一切れ置かれている。棚の上には小さな木彫りの鳥の置物が一つ。埃は被っていないが、飾られているというより、ただそこに在るだけという佇まいだった。
窓から差し込む朝の光の中、セラは寝間着のまま卓に向かい、休日だというのに書類にペンを走らせていた。
(今日中に片付けておけば、明日が楽になる)
そう自分に言い聞かせて、手を止めない。休むという発想自体が、この数年、頭の中からすっぽり抜け落ちている。
ふと、木彫りの鳥に目が留まった。
「……見てても何も進まないのに」
小さく呟いて、視線を戻す。誰に向けた言葉でもなかった。
昼近く、控えめな戸叩きの音がした。
「セラ、いるか。レオン様から言伝で――」
誠の声だった。セラは弾かれたように立ち上がり、寝間着のまま固まった。
「な……っ、少し待ってください!」
慌てて着替える衣擦れの音と、書類を隅に寄せる音が、薄い扉の向こうまで聞こえてくる。誠は戸口で律儀に待ちながら、休日にすまないな、と内心で思っていた。
しばらくして扉が開く。セラは文官服にきっちり着替え直していたが、髪はまだ結い上げる前で、いつもより幼く見えた。
「休みの日に、悪いな」
「いえ……お仕事ですから」
セラは事務的な口調に戻ろうとしていたが、目元にはまだ動揺が残っていた。
「これだ。街道の許認可書類、レオン様が急ぎ確認したいと」
誠が差し出した書類を、セラは手早く受け取って中身に目を通す。慣れた仕草だった。だが誠の視線は、開いたままの部屋の奥に自然と吸い寄せられていた。
冷えたパン。積まれたままの書類。畳まれてはいるが、誰も座っていない椅子の埃。棚に並んだ器は数が合っていない。片方だけの湯呑み、揃いのない皿が二枚。誰かと暮らした形跡ではなく、必要最低限だけを買い足してきた一人暮らしの跡だった。
「……お前、休みの日も仕事か」
「休んでいますよ、これくらい」
「それ、休んでるうちに入るのか」
セラは一瞬答えに詰まった。
「……効率的に使っているだけです」
「昼は食ったのか」
「これから」
誠の視線が、卓の上の冷えたパンに落ちる。セラはそれに気づいて、気まずそうに書類の陰にパンを押しやった。
「昨日の残りです。買いに行く暇がなくて」
「昨日も同じようなものを食ったのか」
「……一昨日も、かもしれません」
誠は小さく息を吐いた。現場で似たようなことをする若手を、何人も見てきた。飯を抜いて仕事を回す。体は保つように見えて、少しずつ削れていく。悠真もそうだった。
「材料はあるか」
「……はい?」
「飯くらいまともに食え。俺が作る」
セラは面食らった顔で誠を見上げた。
「そんな、監督にそこまでしていただく理由が」
「理由はいい。俺がやりたいからやる」
有無を言わせない口調に、セラは毒気を抜かれたように口をつぐんだ。誠は返事を待たずに、台所へ続く戸口へと足を向けた。
「……台所は、そこです」
案内されるまま台所を覗くと、案の定、道具は最低限しか揃っていなかった。誠は棚を検分するように開けて、卵と、萎びかけた野菜を数種類見つけた。
「これで足りる」
「本当に、いいんですか」
「座ってろ」
セラは戸口に立ったまま、誠が手際よく野菜を刻む様子を見ていた。前世の現場で何百回と繰り返した動作だった。忙しい朝、限られた材料で腹を満たす技術。包丁の音は迷いなくリズムを刻み、油が鍋で弾ける音がすぐに続いた。
「監督は、料理もできるんですね」
「一人暮らしが長かったからな。現場に入ると、飯は自分で何とかするしかない」
「……そうなんですか」
「工程を組むのと、飯を作るのは似てる。手順を間違えなければ、大体うまくいく」
セラは戸口からその様子を見つめながら、少しだけ表情を緩めた。誰かが自分の台所で動いている光景が、ひどく珍しいものに映っているようだった。
しばらくして湯気の立つ皿が卓に置かれた。卵と野菜だけの簡素な炒め物だったが、彩りよく仕上がっている。セラは戸惑った顔でそれを見つめた。
「……こんなことまで、していただかなくても」
「文句は食ってから言え」
セラは匙を手に取り、恐る恐る口に運んだ。しばらく黙って咀嚼してから、ぽつりと言う。
「……美味しいです」
「そうか」
「誰かに、作ってもらったの、久しぶりで」
その声が、いつもの事務的な響きから少しだけ外れていた。
「もっと、自分のこと大事にした方がいい」
「監督にだけは、言われたくありません」
思わず出たような一言に、セラ自身が驚いた顔をした。誠は苦笑した。
「……耳が痛いな、それは」
「監督だって、休みの日に休んでいる姿、見たことありません」
「最近、ちょっとは学んだ」
「本当ですか?」
「本当だ。誰かに教わった」
セラは少し意外そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。皿の中身が半分ほど減った頃には、二人の間の空気は最初よりずっと柔らかくなっていた。
「木彫りの鳥、あれは」
食後、誠がふと棚を見て尋ねた。セラの表情が僅かに硬くなる。
「……昔の上司から、餞別に。私が今の職に就く前、下働きだった頃に目をかけてくださった方です」
「今は」
「左遷されました。理由は、私にも分かりません」
セラは淡々と続けた。感情を押し殺した平坦な口調だった。
「その方は、フェルドさんという文官長でした。私はもともと、城の書庫の整理をするだけの下働きで。ある日、帳簿の桁が一つ合わないことに気づいて、こっそり指摘したんです。普通なら、下働きが口を出すことじゃないと叱られてもおかしくなかった」
「怒られなかったのか」
「はい。フェルドさんは、私を書庫から文官見習いに引き上げてくれました。『数字を見る目がある』と。それから何年も、あの人の下で仕事を覚えました」
セラは木彫りの鳥にちらりと目をやった。
「餞別にあれを。『鳥は、どこにでも飛んでいける』と。私にはまだ、その意味がよく分かりませんが」
「今は、どこにいるんだ」
「王都から離れた、小さな出先機関に。理由は聞かされていません。何か、機嫌を損ねたのか、それとも巻き込まれたのか」
誠は黙って聞いていた。何かを言おうとして、やめる。セラの表情から、これ以上は踏み込んでほしくないという気配が伝わってきたからだった。
「あの方がいなくなってから、私を対等に見てくれる人は、もういません」
「対等に、ってどういうことだ」
セラは少し迷ってから、口を開いた。
「私は平民の出です。役目柄、貴族の方々と対等に振る舞うことを求められますが、彼らからすれば私は所詮、身分をわきまえない平民に過ぎません」
誠は口を挟まず、黙って続きを待った。急かされないと分かってか、セラの言葉は少しずつ具体性を帯びていく。
「宴の席で、私が発言すると、目も合わせずに聞き流されることがあります。仕事の場では私を頼っておきながら、私的な集まりには決して呼ばれません。皆、遠回しに線を引いてくるんです。表立って侮辱されるわけではないので、抗議のしようもありません」
「かといって、平民として育った側からも、今の私は貴族寄りの仕事をする人間として見られます。町の市場で、昔から知っている顔に会っても、どこかよそよそしい態度を取られる。悪気があるわけではないんです。ただ、私がもう、あちら側の暮らしを離れてしまったというだけで」
「……どっちからも、ってことか」
「はい。どちらの側にも、居場所がないんです」
言葉にしてしまうと、セラ自身も驚いたような顔をした。誰かにこんな話をしたのは、久しぶりのようだった。
「フェルドさんがいた頃は、それでも良かったんです。あの人だけは、私をただの部下として見てくれていたから。でも、いなくなってからは」
セラは一度言葉を切った。
「誰にも、弱音を吐けなくなりました。仕事の場で弱さを見せれば、それだけで足元を掬われる立場ですから」
「今、吐いてるじゃないか」
誠が静かに言うと、セラは虚をつかれたように誠を見た。
「……そう、ですね。どうしてでしょう」
「さあな。俺には分からん」
誠は少し言葉を選んだ。
「ただ、俺はお前の身分にも貴族の事情にも、そんなに詳しくはない。だから」
セラは続きを待った。
「工程表を最初に理解したのは、お前だった。あれは身分とは関係ない、お前自身の仕事だ。俺はそこしか見てない」
セラはしばらく黙っていた。それから、小さく、本当に小さく笑った。
「監督は、ずるいです」
「何がだ」
「そうやって、何でもないことのように言うから」
誠が帰った後、セラは片付いた台所の椅子に一人で座っていた。
空になった皿。誠が使った匙。誰かが自分のために動いた跡が、まだそこに残っている。
棚の上の木彫りの鳥に、もう一度目をやった。
「……見てても何も進まない、か」
朝と同じ言葉を呟いたが、響きは違っていた。
対等に見てくれる人が、まだいたのだ。それだけのことが、こんなに胸の奥を温めるとは思わなかった。
セラは書類の束に手を伸ばしかけて、ふと止めた。今日くらいは、と思う。自分でもまだうまく説明のつかない感情を持て余しながら、セラは久しぶりに、何もしない時間を自分に許した。
次回の更新は、9月10日 21:10を予定しています。
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