インタールード① ハンナ、休み方を教える
休みの日の朝、誠は寝台から起き上がった瞬間には、もう頭の中で今日の段取りを組み始めていた。
道具箱の位置。図面の在り処。今日は何もない日だと分かっていて、それでも体が勝手に動く。手が壁際の道具箱に伸びかけたところで、
「監督」
戸口からハンナの声が飛んできた。振り返ると、腰に手を当てて誠を見ている。
「今日は休みだと、昨日おっしゃっていましたよね」
「いや、確認するだけだ。刃の錆とか」
「昨夜もそう言って、確認していましたよ」
言葉に詰まる。確かに昨日も同じことをした気がする。いや、一昨日も。
誰かに任せればいい仕事まで、気づけば自分の手元に引き寄せている。前世からずっとそうだった。任せて何かあったら――そう思うと、結局自分でやった方が早い。分かっていて、直らない癖だった。
ハンナが小さく笑って、道具箱の前に体ごと割り込んでくる。
「今日は、休む段取りをしてください」
その言い方に、誠は毒気を抜かれて手を下ろした。
「……段取りって言葉、こういう時にも使うのか」
「監督が教えてくれたんじゃないですか」
してやられた。誠は苦笑いを浮かべるしかなかった。
ハンナが朝の水汲みに出た隙、誠は縁側に腰を下ろして、ふと自分の掌を見た。
節くれ立って、傷だらけの手。見慣れたはずのその手を、なんとなく【大地審眼】で覗いてみる気になった。
構造物や地盤を視る時と同じ要領で、意識を自分の内側に向ける。
――色が、視えた。
普段、村人や仲間を診た時の色を思い出す。健全なら青。今、自分の体の芯にあるのは、くすんだ黄色だった。危険域の赤ではない。だが、青からは遠い。
誠は思わず自分の胸のあたりを手で押さえた。
(俺は今まで、これで人の疲労を見つけて、現場の状態を診てきたのに)
肩、腰、目の奥。色を追っていくと、黄色は一箇所ではなかった。じわりと体全体に薄く広がっている。急性の怪我や病とは違う、積み重なった摩耗の色。
病名までは分からない。この力はそこまで教えてくれない。「肝臓のあたりが赤い」までしか視えないのと同じで、今の自分についても「疲れている」以上のことは分からなかった。
分からないからこそ、誠は妙な焦りを覚えた。現場で誰かの体にこの色を見つけたら、迷わず休ませる。自分にそうする理由がないと言えるのか。
「何を百面相してるんですか」
いつの間にか水桶を提げて戻ってきたハンナが、誠の顔を覗き込んでいた。誠は慌てて手を下ろす。
「いや……何でもない」
「嘘。今、すごく怖い顔してましたよ」
誠は答えに詰まった。まさか自分に診断のスキルを使って青ざめていた、とは言いにくい。
「ちょっとな。自分の見立てが、あまり良くなかっただけだ」
「見立て、ですか?」
「気にするな。それより、今日は付き合ってくれるんだろう」
誠が話を逸らすと、ハンナはしばらく誠の顔を見つめていたが、それ以上は聞かずに頷いた。
「はい。行きましょうか」
その素直な引き際に、誠は少しだけ救われた気がした。
昼の村道は、休みの日らしくのんびりとしていた。井戸端で洗濯をする女たちの声、鶏の鳴き声、子供が転がすたらいの音。誠は珍しく道具を何一つ持たずに、ハンナの隣を歩いた。
「監督って、休みの日は何をされてるんですか」
「何も、してない。今日みたいに、な」
「嘘ばっかり」
ハンナが笑う。誠は反論できず口をつぐんだ。
市場代わりの露店が並ぶ通りに出ると、ハンナは慣れた足取りで肉屋の前に立ち止まり、店主と二言三言交わして紙包みを受け取った。誠が財布を出そうとすると、手で制される。
「今日は私が出す番です。監督にはいつもお世話になっていますから」
「世話になってるのはこっちだ」
「言い合いはなしです」
有無を言わせない口調に、誠は肩をすくめた。
家に戻ると、ハンナは竈に火を入れ、手際よく鍋を仕込み始めた。誠はその横で椅子に腰掛け、包丁の音、油の弾ける音、少しずつ強くなる香りを聞くともなく聞いていた。
「今日は何を作るんだ」
「豆と根菜の煮込みです。あとで肉も入れますね」
しばらくして湯気の立つ鍋が卓に運ばれてきた。掬い上げた匙から立つ湯気が顔にかかる。木の匙を口に運ぶと、まず根菜の甘い匂いが鼻に抜け、次に舌に染みる熱さ、そして豆のほくほくとした歯ごたえ、最後に肉の脂の旨味が追いかけてくる。
「うまい」
「でしょう」
ハンナは満足げに頷いてから、少し遠い目をした。
「昔は、これ、二人分作っていたんです」
誠は匙を止めた。ハンナが自分から夫の話に触れるのは珍しい。
「行商に出る日の朝は、いつもこれでした。あの人、これを食べると力が出るって言って」
「……そうか」
「今はもう、味加減も覚えていないくらい昔の話です。でも、味だけは体が覚えているみたいで」
淡々とした口調だった。悲しみに沈んでいるわけではなく、ただ事実を語るような響き。誠は余計な言葉を探すのをやめて、黙って匙を動かした。
「監督って、聞き上手ですよね」
「そうか?」
「はい。無理に何か言おうとしないので」
ハンナはそう言って、また匙を手に取った。会話はそこで途切れたが、気まずさはなかった。鍋の湯気と匙の音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。
日が傾き始めた頃、二人は軒先に並んで腰を下ろしていた。西日が村道を橙色に染めていく。
「監督は、前世でも、こんな風に休んでたんですか」
不意の問いに、誠は少し考えた。
「いや。休みの日も、大体現場のことを考えてた」
「今と同じじゃないですか」
「……そうだな」
苦笑いが漏れる。ハンナの指摘は的確すぎて、逃げ場がなかった。
「昔、面倒見てた若いのがいてな。あいつも、休めって言っても休まないやつだった」
「その人は、今どうしてるんですか」
誠は少し間を置いた。柏木悠真の顔が浮かぶ。まだ生々しい記憶だが、今日はそれを重く語る気分ではなかった。
「もう会えない。遠くに行った」
「そうですか」
ハンナはそれ以上聞かなかった。詮索しない距離感が、今はありがたかった。
「多分、俺があいつに休めって言ってたのと同じことを、今、お前に言われてるんだと思う」
「じゃあ、少しは効いてます?」
「……効いてるよ」
ふと、ハンナの言葉尻がわずかに柔らかくなっていることに、誠は気づいた。丁寧な言い回しの角が、心なしか取れている。
沈黙が落ちた。いつもより長い沈黙だった。気まずくはない、むしろ心地よい沈黙だった。ハンナがふと視線を落とし、誠の膝の上に置かれた手に目を留める。目を離さない。いつもならすぐに逸れる視線が、今日は珍しく長く留まっていた。
節と傷だらけの、いつもの手。ハンナは何か言いかけて、結局何も言わずに、ただじっとその手を見つめていた。誠もつられて自分の手に目をやる。二人して黙ったまま、傷の一つ一つを数えるような間が流れた。
「……その手、見るたびに思うんです」
ハンナがぽつりと言った。
「誠さ……」
言いかけて、ハンナは一瞬言葉を止めた。それから、何事もなかったように続ける。
「――監督は、ちゃんと、自分を大事にしてくださいね」
一拍分だけ遅れた言い直しだった。誠はそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。ただ小さく頷いた。
しばらくして、ハンナがはっとしたように立ち上がる。
「……あ。明日の分の水、汲んでおかなきゃ」
「……手伝う」
「今日は休みの日ですよ」
ハンナは少し早口でそう言うと、逃げるように家の中に戻っていった。誠はしばらくその場に座ったまま、自分の手をもう一度見つめた。黄色だった色が、少しだけ薄くなった気がした。気のせいかもしれない。それでも、そう感じた。
夜、床につく前に、誠はもう一度だけ自分に【大地審眼】を向けてみた。
色は変わっていない。一日休んだくらいで消えるものではないと、分かってはいた。それでも、今日一日を思い返して、誠は静かに得心した。
段取り八分、仕事二分。現場で何百回と自分に言い聞かせてきた言葉だ。だが、休むこともまた、その段取りの一部だったのだと、今更ながらに気づく。
無理を重ねた先に何が待っているか、誠は前世で嫌というほど知っている。今度は、その段取りを違える気はなかった。
ふと、昼間のハンナの言葉が耳の奥に蘇る。
――監督は、ちゃんと、自分を大事にしてくださいね。
言いかけて止まった、あの一瞬の間も一緒に思い出す。誠は寝台に横になったまま、しばらくその響きを味わっていた。悪くない、と思う。理由は自分でもうまく言葉にできなかった。
窓の外では、村の灯りが一つ、また一つと消えていく。穏やかな夜だった。
明日はまた、いつもの現場だ。今日みたいな一日も、たまには悪くない。
そう思いながら、誠は久しぶりに深く目を閉じた。
次回の更新は、9月 9日 21:10を予定しています。
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