第56話 現場監督、峠を渡し切る
最後の一撃は、これまでのどの一打とも違う音を立てた。
鑿の先が岩を貫いた瞬間、坑道の奥に光が差し込んだ。
「――抜けた!」
ロフの声が響き渡る。誠が駆け寄って覗き込むと、崩した岩の隙間から、反対側の斜面の緑が見えていた。まだ拳大の穴だが、それは紛れもなく、峠の向こう側だった。
半月以上、灯りだけを頼りに掘り進んできた坑道に、初めて外の光が差し込んだ。眩しさに、誰もが一瞬目を細めた。風が吹き込み、坑内に籠っていた粉塵の匂いを押し流していく。草の匂い、土の匂い、峠の向こう側の、まだ誰も知らない空気だった。
「抜けたぞ!」
「本当に、山を貫通させちまった!」
歓声が坑道いっぱいに広がった。誠の班とホルバの一団、誰もが手を止め、光の差し込む小さな穴に見入っていた。ホルバもまた、その光を、静かな目で見つめていた。誠がその横顔を窺うと、いつもの淡々とした表情の奥に、確かな感慨が滲んでいるのがわかった。
穴を広げる作業は、そこから半日もかからなかった。人が余裕をもって通れる大きさまで開通させると、両側から差し込む光が坑道の中程で交わり、これまで灯りだけを頼りにしてきた薄暗さが嘘のように消えた。誠は【大地審眼】で全区間を改めて診断した。入り口から出口まで、坑道全体を貫くように視線を巡らせる。
赤も、黄色も、どこにもなかった。
見渡す限り、あるのは健全を示す青だけだった。半月以上かけて積み重ねてきた膜の一枚一枚が、途切れることなく続いている。狭い区画も、地下水脈のあった一帯も、あの空洞のあった場所も、すべてが同じ青で塗り替えられていた。
「全区間、異常なし」
その一言に、誰からともなく拍手が起きた。半月以上かけて積み上げてきたものが、今この瞬間、確かな結果として証明された。
数日後、正式な検分のため、セラがクロイツェンから訪れた。彼女は坑道の入り口から出口まで、書類片手にゆっくりと歩いて確かめた。灯りに照らされた坑道の壁を一つ一つ指でなぞり、記録紙の数字と照らし合わせていく。
「……本当に、貫通しているんですね」
「疑ってたのか」
「疑っていたわけではありませんが、報告の数字と、実際に自分の足で歩くのとでは、重みが違います」
セラは記録紙と照らし合わせながら、満足そうに頷いた。
「辺境伯様も、正式な報告を心待ちにしています。北の迂回路に流れていた交易が、これでどれだけ戻るか」
「まだこれからだ。道が通っただけで、人は戻らない」
「それでも、最初の一歩です」
セラはそう言うと、珍しく口元を緩めた。それから、坑道を支える薄い層に目を留めた。
「これが、噂に聞いた新しい工法ですか」
「山持たせ掘り、という」
「良い名です。中身が、そのまま名前になっている」
セラは短くそう評すると、また書類に目を戻した。実務家らしい、簡潔な賛辞だった。それから顔を上げ、珍しく付け加えるように言った。
「……名前のつけ方まで、あなたらしいですね」
「らしい、とは」
「飾らない。中身がそのまま名前になる。治水の時の『重ね堤』も、そうでした」
誠は少し考えてから答えた。
「飾る余裕がないだけだ」
「それも、あなたらしい返し方です」
セラは小さく笑い、記録紙を束ねて書類挟みにしまった。
その日の夕方、峠道の入り口で、ささやかな祝宴が開かれた。モーレン村からドルガやバルド、ハンナも顔を出し、誠の班とホルバの一団の労をねぎらった。ハンナが用意した料理と麦酒が振る舞われ、これまで馴染まなかった二つの集団が、今では肩を並べて笑い合っている。
「大したもんだ。山に穴を通すたぁな」
バルドが感心したように坑道を見上げた。
「石工の領分外だと、あんたが言ったんだろう」
「言ったな。ホルバの一団の腕を見て、なおさら思い知った。あれは、俺には真似できねえ」
バルドは素直にそう言うと、ホルバの一団の一人と杯を交わし始めた。かつて「うちの領分外」と口にした男が、今は同じ酒を酌み交わしている。その光景だけで、誠には積み重ねてきた月日の重さが伝わった。
ドルガも杖代わりの鍬を傍らに置き、坑道の入り口を眺めていた。
「わしが若い頃は、この峠を越えるだけで一日仕事だった。それが今じゃ、山そのものに道を通しちまう」
「大袈裟だ、ドルガ」
「大袈裟なもんか。誠様のおかげで、村がどれだけ変わったことか」
「様はいらないと、前にも言ったろう」
「そうは言うがな」
ドルガが喉の奥で笑う。誠も苦笑しながら、その軽口を受け流した。呼び方一つで揺れていたやり取りも、今ではすっかり見慣れた光景になっていた。
「今度はどこの現場だ、監督」
ロフが誠の班の一人に軽口を叩いている。答える方も、まんざらでもない顔をしていた。半月前には考えられなかった光景だった。
「またうちにも、声かけてくれよ。腕は保証するぜ」
ロフの言葉に、誠は小さく笑った。
「ああ、もちろんだ」
宴もたけなわになった頃、誠はふと、ホルバの姿が見えないことに気づいた。探すと、少し離れた岩陰で、ホルバが一人、何かを見つめていた。
近づこうとした誠の腕を、ミラがそっと引いた。
「見て、監督」
ホルバの手には、小さな革袋があった。中から石を一つ取り出しかけ、しばらくそれを見つめている。灯りに透かすように、その石を掌で転がし、確かめるように何度も撫でていた。だが結局、その石を袋の中に戻し、口を固く結んだ。
「あれ、たぶん……何かを数えてる袋だと思う」
ミラが小声で言う。誠にも、その意味がおぼろげに伝わった。何かを失うたびに、石を一つ、その袋に足してきたのだろう。何十年、何百年という年月の分だけ、その袋は重くなってきたに違いない。そして今回、足す必要がなかった。
誠は声をかけず、そのまま宴の輪へ戻った。今、踏み込むべき瞬間ではない気がした。あの静けさは、誰かに見せるためのものではなく、ホルバ自身が己に言い聞かせるための、静かな儀式のようなものだった。
しばらくして、ホルバが宴に戻ってきた。手には空になった革袋が握られたままだったが、その顔つきは、これまでのどの表情よりも穏やかだった。ロフがすぐに気づき、何も聞かずに杯を差し出す。ホルバはそれを黙って受け取り、一息に呷った。
「監督」
「何だ」
「次も、あんたの現場に呼んでくれ」
短い一言だった。だが誠には、それがどれほどの意味を持つ言葉か、痛いほどわかった。技術だけを内側に溜め込み、誰にも深く関わらずに生きてきた男が、初めて次を望んだ。
「約束する」
「ロフたちにも、少しは仕事を残しておいてやってくれ。この若造、いい腕になってきた」
ホルバがロフの肩を軽く小突く。ロフは照れくさそうに頭をかいた。
宴が更けていく中、誠は峠道の向こうに広がる夜空を見上げた。エーレン峠は、これで完全に貫通した。北へ抜ける道が、再び生きた道として蘇った。もう誰も、この道で命を落とすことはない。
だが同時に、頭の隅では別のことも考えていた。この峠を失って何年も稼ぎ続けてきた北の迂回路。そこで利益を得ていた者たちが、この貫通をどう受け止めるか。セラの言葉を借りるまでもなく、交易が戻れば、必ず誰かの利権が揺らぐ。エーレン峠が生き返ることを、心から喜ばない者もいるはずだった。
工事は終わった。だが、この道が本当の意味で村と町を潤すまでには、まだいくつもの壁が待っているのだろう。
騎士爵になり、峠を貫き、新しい工法に名前までつけた。それでも、誠のやることは変わらない。壊れている場所を見つけ、直す。ただそれだけだ。
――さて、次は何が待ってる。
次回の更新は、9月 8日 21:10を予定しています。
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