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第55話 現場監督、今度こそ間に合うを編集

隧道工事も峠道の最奥部、坑道はいよいよ差し掛かっていた。


反対側の斜面まで、あと十数メートル。地図の上で計算していた距離が、現実の岩壁として目の前に迫っている。掘進の記録紙には、これまでで最も長い連続した数字が並んでいた。誠は灯りを掲げ、その先の暗闇を見据えた。


坑内の空気は、これまでのどの区画とも違っていた。掘り進んだ距離が長くなるほど、外の風とは切り離された、深く沈んだ匂いが強くなる。湿った岩と、灯りの油煙と、大勢の人間の吐く息の匂いが、狭い空間に籠っていた。それでも誰も、その息苦しさを苦にしていなかった。


「監督、貫通まで、もうすぐだね」


ミラの声に、いつもの緊張とは違う響きがあった。半月以上続けてきた作業の果てに、終わりが見え始めている。誠の班にも、ホルバの一団にも、隠しきれない高揚感が漂っていた。休憩中の軽口も、いつもより弾んでいる。


「気を抜くのは、まだ早い」


誠はそう答えながらも、内心では同じ高揚を感じていた。ここまで、大きな事故もなく進んでこられた。地下水脈も乗り越えた。あと少しで、この峠は貫通する。エーレン峠に初めて足を踏み入れた日から、随分と遠くまで来たものだと思う。


「頭、次の一撃で行きます」


ロフが鑿を構える。ホルバが頷き、作業が再開された。


鑿の先が岩に食い込む、いつもの音。だが次の瞬間、その音の質が変わった。


硬い岩を叩く音ではない。何かが、内側で崩れるような、乾いた反響音だった。


誠の視界に、これまで見たことのない色が浮かんだ。壁の表面ではなく、その奥、これまで【大地審眼】が拾いきれなかった深部に、真っ赤な空洞が広がっていた。


「っ!」


【大地審眼】は、表面から一定の深さまでしか診断できない。外から閉じられた空洞は、掘り進めて露出するまで、存在そのものを捉えられない。診断だけでは、すべては救えない。誠はその限界を、これまで何度も思い知らされてきた。今もまた、同じ壁にぶつかっていた。


見る。


岩壁の一部が、内側から崩れ始めていた。ロフの真上、天井に近い一角。鑿の一撃が、隠れていた空洞の薄い蓋を突き破ったのだ。砕けた岩片が、次々と降り注ぎ始める。


判断する。


崩落の規模は大きい。逃げる時間はほとんどない。だが、その場を一時的にでも支えられれば、ロフを引きずり出す猶予が生まれる。誰か一人が、崩落そのものを一瞬だけ受け止める必要がある。


動く。


「ロフ、退がれ! ホルバ、支えろ!」


誠の声が響くのとほぼ同時、ホルバが弾かれたように動いた。指示を聞いてから動いたのか、それとも指示より先に体が動いていたのか、誠にもわからないほどの速さだった。


崩れ始めた天井の下に、ホルバが自らの体で飛び込んだ。両腕を突き上げ、崩落の勢いを一身に受け止める。岩の重みに、太い骨が軋むような音が聞こえた。


「ホルバさん!」


ミラの悲鳴が坑道に響く。


ロフは咄嗟に体勢を崩し、逃げ切れずに片足を岩の下に取られていた。恐怖に強張った顔で、伸びてくる岩の影から逃れようともがいている。だがホルバが支えた一瞬の隙間に、誠が駆け寄り、ロフの腕を掴んで引き抜く。


「今だ!」


渾身の力で引き倒すと、ロフの体が崩落域の外へ転がり出た。灯りに照らされた顔は、粉塵と汗にまみれていたが、確かに息をしていた。


その直後、ホルバが支えを解いて飛び退いた。轟音とともに、崩れ落ちた岩が、たった今まで人がいた場所を埋め尽くす。地響きが坑道全体を震わせ、しばらくの間、誰もが動けずにいた。


粉塵が舞い上がり、視界が白く霞んだ。


咳き込む声。荒い息遣い。誰かが灯りを掲げ直す音。しばらくの間、誰も言葉を発せなかった。粉塵の向こうに何が残っているのか、誰もが息を詰めて見つめていた。


「……ロフ、無事か」


誠が声を上げると、粉塵の向こうから咳き込みながらの返事があった。


「足、少し挟まれましたが……動きます。骨は、多分」


安堵の声が、周囲から漏れた。誠は駆け寄り、ロフの足を確かめた。腫れてはいるが、折れてはいなさそうだった。


「立てるか」


「立てます。……すみません、油断しました」


「油断じゃない。誰にも見えない場所だった」


誠はそれだけ言うと、視線を巡らせた。


「ホルバは」


視線の先、崩落の縁で、ホルバが片膝をついていた。腕から血が滲んでいるが、大きな怪我ではなさそうだった。周囲のホルバの一団が、慌てて駆け寄ろうとするのを、誠が先に制した。


誠はホルバに駆け寄った。


「大丈夫か」


「……ああ」


短い答えだった。だがその声に、震えはなかった。


誠はホルバの手を見た。血が滲んだ腕を押さえるその手は、半月前、ロフの肩を掴んで確かめていたあの時とは、まるで違う静かさだった。震えていない。取り乱してもいない。ただ、確かな安堵だけが滲んでいた。


「間に合った、な」


ホルバが、誰に言うでもなく呟いた。


「今度は、自分の判断で、自分が支えに入った。誰かを先に行かせて、後から悔やむこともない」


その一言に、誠はあの狭い坑道で聞かされた過去の重みを思い出していた。かつて、狭い区間に弟子を先に行かせ、間に合わなかった男が、今度は自らその場に飛び込んだ。過去の選択と、今日の選択。同じ状況で、違う判断を下した。あの日取り戻せなかったものを、今日ようやく、少しだけ取り戻せたのかもしれない。


ホルバはしばらく、自分の手を見つめていた。血の滲んだ、それでも震えていない手を。何かを確かめるように、指を一本一本、ゆっくりと握り込む。周囲の喧騒から少し離れたその横顔は、誰かに見せるためのものではなく、自分自身に向けられた確認のように見えた。


「監督、ロフさん、大丈夫……」


ミラが駆け寄ってきて、ロフの無事を確認すると、その場にへたり込んだ。


「よかった……本当に、よかった」


安堵のあまり、声が震えている。目には涙が滲んでいた。


「監督、私、ずっと怖かった。ホルバさんの様子がおかしいの、ずっと気になってて。でも何も、してあげられなくて」


「お前は十分、気づいていた。誰よりも早く」


「それだけじゃ、足りなかった」


「今日、ロフが助かった。それで十分だ」


ミラは目元を拭いながら、小さく頷いた。半月前からずっと、ホルバの異変を気にかけ続けてきた彼女にとって、今日という日は、積み重ねてきた不安がようやく報われた瞬間でもあった。


誠はホルバの肩に手を置いた。


「今日はもう、休め。手当てが先だ」


「……ああ」


ホルバは素直に頷いた。これまでの投げやりでも、頑なな拒絶でもない。静かな了承だった。


ロフが、支えられながら立ち上がると、ホルバの方へ歩み寄った。


「頭……ありがとう、ございます」


「礼は監督に言え。無事ならそれでいい」


ホルバはそれだけ言うと、目を逸らした。だがその横顔に、これまでのどの表情とも違う、穏やかさのようなものが浮かんでいた。


粉塵が収まった坑道の奥、崩落した岩の隙間から、外気とは違う、深く湿った空気が流れ込んでいた。誠は【大地審眼】でその先を確かめる。まだ見えない領域が広がっている。露出したばかりの空洞の奥に、さらに何が潜んでいるのか、今はまだわからない。


一つの空洞を突破しただけだ。この先にまだ、同じような隠れた弱点が眠っている可能性は消えていない。診断が及ばない領域がある以上、油断は禁物だった。


山持たせ掘りは、掘った直後の面を支える技だ。だが今日の空洞のように、掘る前から隠れていた弱さまでは防げない。技法にも、まだ埋めきれない隙間がある。それを埋めるのは、技法そのものではなく、その場に立つ人間の判断と、咄嗟の行動だ。今日、それを証明したのはホルバだった。


貫通まで、あと少し。だが、この最後の数メートルには、まだ見えていない危険が眠っているかもしれない。誠は記録紙に、今日の出来事を書き留めながら、気を引き締め直した。


――最後の難所は、まだ終わっていない。

次回の更新は、9月 7日 21:10を予定しています。


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