第54話 現場監督、山持たせ掘りと名付ける
その日の掘削は、いつもと変わらない朝から始まった。半月以上続けてきたリズムに、誠もミラも、ホルバの一団もすっかり慣れていた。狭い区画を越え、坑道はいよいよ峠の中腹に差し掛かっている。掘進距離の記録も、着工当初とは比べ物にならない数字を積み上げていた。
だが数十センチ掘り進んだところで、誠の視界に、これまで見たことのない規模の赤が広がった。
見る。
掘削面の奥、広範囲にわたって岩肌がにじんでいる。水が染み出す速さが、これまでの比ではなかった。壁を伝う筋が、見る間に数を増やしていく。ぽたり、ぽたりと落ちる水音が、次第に絶え間ない滴りに変わっていった。
判断する。
これは、局所的な弱さではない。地下水脈そのものに突き当たった徴候だ。放置すれば、水圧に押されて広範囲が一気に崩れる。
動く。
「全員退がれ! この先には近づくな!」
誠の声が坑道に響き渡った。作業員たちが弾かれたように後退する。ホルバも即座に鑿を引き、誠の指示に従った。
粉塵の匂いに、湿った水の匂いが強く混じり始めていた。灯りに照らされた壁面が、じわりと黒く濡れていくのが見える。
「監督、これ……」
ミラの声が硬くなっていた。
「地下水脈に当たったんだ。これまでとは規模が違うぞ」
誠は【大地審眼】で範囲を確かめながら、頭の中で段取りを組み立てていた。これまでのように、数十センチ単位で膜を貼りながら進む速さでは間に合わない。水は待ってくれない。
「今までは一区画ずつ、順番にやってきた。だが今度は、この範囲を一気に覆う必要がある」
誠が指し示したのは、これまでのどの区画よりも広い一帯だった。天井から足元まで、崩落の危険域がそのまま壁一面に広がっている。
「まるごと、一気にか」
ホルバが確認するように呟いた。
「区画ごとに分けて進めれば、なんとか間に合わんのか」
「間に合わない。水は待ってくれない。今、崩れかけている場所を全部同時に押さえないと、一箇所を塞いでる間に別の場所が崩れる」
ホルバの顔が強張った。
「一気に、だと。そんな規模、できっこねえ」
「魔法でならできる。ただし、精密さを欠けば意味がない」
周囲のホルバの一団も、顔を見合わせていた。誰かが小さく「そんなことが」と呟くのが聞こえた。これまで積み上げてきた実績があっても、この規模は誰の想像も超えていた。
誠はミラを見た。
「広い範囲を、一枚の膜で、途切れさせずに覆う。厚さも均一に保つんだ。これまでの比じゃない繊細さが要る」
「……できる、と思う?」
ミラの声が、わずかに震えていた。これまでで最大の規模だ。誰でも気圧される数字だった。
「できるかどうかじゃない。俺が言った寸法と条件を、お前がそのまま思い描けるかどうかだ」
誠はミラの目を見た。
「岩の質、厚み、水の通り道。全部診てある。お前の魔力が足りないなら、そう言え。それなら別のやり方を考える」
「足りるか足りないかより、どこまで正確にできるかでしょ。監督が渡すそういうのって、外したことないじゃない」
ミラは大きく息を吸い込んだ。迷いを振り切るような、短い呼吸だった。
「――やる。監督が診た通りに動かせばいいんでしょ」
「その通りだ」
誠は手のひらを壁に向け、これまで診てきた情報を余すことなく、頭の中で組み立て直していく。岩の厚み、脆さの分布、水脈の走る方向。一つ一つを、できる限り精密な像としてミラへ渡していった。これまでのどの区画よりも情報量が多い。渡し切るまでに、いつもより長い集中を要した。
ミラが両手を掲げた。
坑道の空気が、張り詰めた。
ミラの掌から溢れた光が、まず中心から波紋のように広がり始めた。そこから壁一面を這うように伸びていく。これまでの一区画分の何倍もの範囲を、途切れることなく、薄く滑らかな層が覆っていった。ところどころ複雑に入り組んだ岩の凹凸にも、寸分違わず沿っていく。厚みが均一に保たれたまま、水の染み出す筋を一つ、また一つと塞いでいく。
光は天井にまで這い上がり、そこからまた両脇の壁へと分かれて広がった。まるで坑道そのものが、内側から薄い殻に包まれていくようだった。誠が渡した心象――岩の厚み、脆さの分布、水脈の走る方向、そのすべてが寸分違わず反映されている。狂いのない、精密な流れだった。
誰も声を上げなかった。息を呑む音だけが、坑道に満ちていた。灯りに照らされた光の膜が、まるで生き物のように呼吸しながら広がっていく様子を、誰もが食い入るように見つめていた。
粉塵の中、光の膜が壁全体を覆い尽くすまで、時間にすればわずかだったはずだ。だが誠には、それがひどく長く感じられた。
やがて、最後の一筋の水音が止んだ。
静寂が落ちた。
誠は駆け寄り、【大地審眼】で覆われた壁を確かめた。
視界に広がっていた赤は、跡形もなく消えていた。あるのは、健全を示す青だけだった。
「……成功だ」
その一言が、坑道に響いた瞬間、堰を切ったように歓声が上がった。
「やったぞ!」
「見たか、あの魔法!」
「これで峠、抜けられるぞ!」
誠の班とホルバの一団の区別なく、誰もが手を叩き、肩を叩き合っていた。これまで馴染まなかった二つの集団が、この瞬間だけは同じ興奮を分け合っていた。ロフまでもが、隣にいた誠の班の一人と拳を打ち合わせている。半月前、無言で杭を打っていた同じ男とは思えない光景だった。
誠自身、崩れずに残った壁を見上げながら、胸の奥に込み上げるものを感じていた。数字や工程だけでは測れない、確かな達成感だった。これまで積み重ねてきた診断も、工程表も、記録も、全部がこの一瞬のために繋がっていた。
ホルバだけが、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
誠が視線を向けると、ホルバは覆われたばかりの壁に、そっと手を当てていた。目を閉じ、長く息を吐き出す。これまで何度も見てきた、あの一瞬の静止とは違う。もっと深く、もっと長い、何かを手放すような息だった。
その指先はもう震えていなかった。半月前、部下の肩を掴んだ時のあの震えとは、まるで違う静かな手つきだった。
「……間に合ったか」
誰に言うでもない呟きだった。だが誠には、その一言の重さが痛いほど伝わった。何十年も、何百年も、間に合わなかった記憶を抱えてきた男が、今この瞬間だけは、それを塗り替えられたのかもしれない。
歓声が収まりかけた頃、ロフが誠の方へ歩み寄ってきた。額の汗を拭いながら、まだ興奮の冷めない顔をしている。
「なあ、監督」
「何だ」
「これ、何て呼ぶんだ。この、掘ってすぐ支える、山に卵の殻みたいな真似させるやり方。名前もねえまま半月以上使ってきたが、そろそろ呼び名がねえと不便でしょうがねえ」
周囲の視線が、自然と誠に集まった。ミラも、ホルバも、こちらを見ている。誠は少し考え、そして口を開いた。
「――山持たせ掘り、なんてのはどうだ」
「山持たせ、掘り」
ロフが繰り返す。噛みしめるような口調だった。
「山自身に、山を支えさせる。だから、そう呼ぶ」
「悪くねえ」
ロフがにやりと笑った。ホルバも、わずかに口の端を緩めた。誠がこれまで見た中で、一番柔らかい表情だった。周りの職人たちも、その名を口々に繰り返し始めていた。
工法に名前がついた。だが、まだ峠道は貫通していない。今日乗り越えたのは、あくまで一つの山場に過ぎなかった。地下水脈という新しい相手を制した今、この先にはまだ、峠の最奥――誰も踏み込んだことのない領域が残っている。
――この先に、もっと大きな試練が待っている。そんな予感が、誠の中で消えずに残っていた。
次回の更新は、9月 6日 21:10を予定しています。
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