第53話 現場監督、消えない記録を誓う
その区画に足を踏み入れた瞬間、誠は空気の変わり方に気づいた。
これまでで最も奥まった場所だった。両側の岩壁がぐっと迫り、天井も低い。掲げた灯りの届く範囲が、いつもより狭く感じられる。埃っぽい匂いの奥に、湿った岩の重さのようなものが混じっていた。
誠は記録紙に目を落とし、これまでの区画と照らし合わせた。狭さ、圧迫感、岩質。どれもが、ホルバがこれまで一瞬の静止を見せてきた条件と一致している。むしろ、これまでのどの区画よりも色濃く、その条件が揃っていた。
――今日、あれが起きるとしたら、ここだ。
そう思った矢先だった。
掘削の振動が伝わった拍子に、掘り終えたばかりの面に、細い亀裂が一本走った。危険を示す赤ではない。誠の【大地審眼】には黄色信号として映るだけの、ごく軽微なものだ。だが、目に見える形で走ったその一筋は、坑道の薄暗さの中で、やけにくっきりと浮かび上がって見えた。
「……ただの表面の割れだ。問題ない」
誠が声をかけたが、返事はなかった。
ホルバが掘削面の前に立ったまま、動かなくなった。
いつもの一瞬の静止ではない。目を閉じ、壁に手を当てたまま、何秒経っても動き出さない。鑿を構えた手が、宙で止まっている。
「……頭」
ロフが小さく声をかけた。だが返事はなかった。ホルバは壁に手を当てたまま、微動だにしない。
周囲の作業員が、次第に手を止めていく。誠の班も、ホルバの一団も、異様な静けさに気づいて動きを止めた。掘削の音が消えた坑道に、誰かの呼吸音だけが響いていた。
長い沈黙の末、ホルバがゆっくりと手を下ろした。だが鑿は握らなかった。
「――今日は、ここまでだ」
低い声だった。これまでの素っ気なさとも、投げやりな態度とも違う。何かを堪えているような、絞り出すような声だった。
「掘るのを止めるのか」
誠が尋ねると、ホルバは初めて、まともに目を合わせた。
「今日は、な」
理由は語られなかった。だがその目には、これまで誠が見てきたどの表情とも違う色があった。怯えに近い何かが、確かにそこにあった。
周囲の作業員たちが、困惑した様子で顔を見合わせていた。これまでのホルバからは考えられない態度だった。誰も、どう声をかければいいのかわからずにいる。
誠は、これまで積み重ねてきた断片を思い出していた。初対面の日の「怪我人が出たらどうする」という問い。着工前夜の「潰れられちゃ困る」という一言。半月前、震える指で部下の無事を確かめた姿。そのすべてが、今この瞬間のために繋がっていくような感覚があった。
「理由を教えてくれ」
「言う必要はねえ」
「仕事のキリがいいところで「『今日はここまでだ』で終わらせるつもりなら、それでもいい。だが、このままじゃ工程が組めない」
「工程なんぞ、後で調整すればいいだろうが」
「調整するにも理由がいる。何度も同じことが起きるなら、なおさらだ」
ホルバの顔が、わずかに歪んだ。
「知ったところで、お前に何ができる」
「わからない。だが、知らなきゃ何もできないことだけは確かだ」
ホルバは誠を睨むように見た。誠は目を逸らさなかった。畳みかけもしなかった。ただ、じっと待った。
長い沈黙が流れた。周囲の誰も、口を挟まなかった。掘削の粉塵がゆっくりと落ち着いていく音だけが、静けさを埋めていた。
「……この幅だ」
やがて、絞り出すようにホルバが言った。
「この、狭さだ。こういう場所で、昔、やった」
「何を」
「弟子を、亡くした」
坑道に、その一言だけが重く落ちた。
「まだ若い弟子だった。腕はいい。筋も悪くなかった。だが、経験は浅かった。急かされた仕事でな。工期を切り詰められて、支保を後回しにした区間があった」
ホルバの声は、感情を押し殺そうとするほど、逆に震えていた。
「今のこの幅とよく似てた。狭くて、圧迫感があって、誰もが早く抜けたがるような場所だった。だから、急いだ。急いだ分だけ、支えが追いつかなかった」
「落盤か」
「ああ」
短い肯定だった。だがその一言に、幾重にも積み重なった年月の重さが滲んでいた。
「あいつを先に行かせたのは、俺だ。狭い場所は経験を積ませるにはちょうどいいと思った。俺の判断だった」
ホルバは一度、言葉を切った。誰も口を挟まなかった。坑道の奥から、かすかな風の音だけが聞こえていた。
「助けようとしたが、間に合わなかった。あいつに教えたことは、全部その日に消えた。技も、癖も、覚えさせたことも、何一つ残らなかった」
ホルバは拳を握った。骨の浮いた手の甲が、白く色を失っている。
「教えても、また忘れられる。誰かに継がせても、その誰かごと消えちまえば、何も残らねえ。だったら、覚えるだけ無駄だ。そう思うようになった」
それから何十年、何百年と、坑道の仕事を続けてきたという話だった。だがその年月は、誠が想像していたような研鑽の時間ではなかった。むしろ、誰にも深く教えず、誰にも深く関わらず、ただ技術だけを己の内側に溜め込んでいく年月だったのだろう。技術への興味と、仕事全体への熱のなさが同居していた理由が、ようやく誠の中で形になった。
ロフが静かに口を開いた。
「頭……」
それだけだった。だがその一言に、これまで黙って見守ってきた彼なりの気遣いが滲んでいた。ホルバは何も答えなかったが、ロフの方を一瞥し、わずかに頷いた。
誠は、しばらく言葉を選んでいた。安易な慰めは、ホルバには届かないだろう。それだけは、確信があった。慰めの言葉なら、誠より他の誰かの方がうまく言えるかもしれない。だが誠にできるのは、慰めではなく、答えを示すことだけだった。
「――だから、記録に引っかかったのか」
ホルバが顔を上げる。
「毎日の進み具合を記録して、次の判断に使う。誰か一人の勘や経験だけに頼らない。俺が言った時、あんたは止まった」
「……ああ」
「記録は、人が消えても残る。誰かが継げなくても、紙が継ぐ。あんたが教えたことも、あんたがいなくなった後も、消えずに残る仕組みだ」
「紙切れ一枚が、人の代わりになるってのか」
「代わりにはならない。だが、消えずに残ることはできる。人の記憶は薄れる。だが図面と工程表は、書いたその日のまま残り続ける。次に誰かが同じ場所に立った時、同じ過ちを繰り返さずに済む」
ホルバは、しばらく黙っていた。目の奥で、何かが揺れているのが誠にはわかった。
「今度こそ、残るのか」
「残す。俺がそのための仕組みを作る」
即答だった。慰めではなく、断言だった。
ホルバはゆっくりと目を閉じた。長い息を吐き出す。
「……信じていいものか、まだわからねえ」
「今すぐ信じなくていい。工程が進んでいく先で、判断してくれ」
その日、掘削はそれ以上進まなかった。だが誰も、それを無駄な一日だとは思わなかった。
道具を仕舞う段になって、ホルバはいつもより丁寧に、一つ一つの鑿を並べ直していた。乱雑に放り込むだけだった普段とは、明らかに違う仕草だった。ロフがそれに気づき、何も言わずに手伝い始めた。二人の間に、これまでとは違う静かな空気が流れていた。
「監督」
帰り際、ホルバが誠の方を振り返った。
「明日は、進める」
それだけ言って、ホルバは歩き去っていった。だがその背中に乗っていた重さは、朝よりわずかに、軽くなっているように見えた。
「監督……」
ミラが隣で、小さく息を吐いた。
「なんか、私まで泣きそうになった」
「まだ、何も終わってない」
誠は静かに答えた。工程は一日分遅れた。ホルバの心が完全に晴れたわけでもない。だが、これまで積み重ねてきたものが、確かに一つ、扉を開いた実感があった。
明日からまた、あの狭い区画を掘り進めることになる。今度は、互いに何を抱えて臨むのかを知った上で。
――記録は、人が消えても残る。今度こそ、証明してみせる。
次回の更新は、9月 5日 21:10を予定しています。
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