第52話 現場監督、震える手を見る
着工から半月が過ぎた。
峠道の入り口から掘り進んだ距離は着実に伸びている。初日は半歩にも満たなかった掘進が、今では一日で大人の背丈ほどまで伸びる日もあった。誠は毎朝、記録紙に並んだ数字を確かめてから現場に入るのを日課にしていた。掘進、膜貼り、異常の有無。三つの欄が、今日も淡々と埋まっていく。
朝の空気にも、着工初日とは違う匂いが混じるようになっていた。掘り進んだ坑内特有の、乾いた岩と、わずかに湿った奥の空気。日を追うごとに、その奥行きは深くなっている。
ただ、頭の隅に居座ったままの疑問だけは、半月経っても消えなかった。
あの一瞬の静止。ホルバが特定の区画でだけ見せる、目を閉じて壁に手を当てる仕草。理由を尋ねても「癖だ」で終わらされたきり、それ以上は何もわかっていない。今日もまた、狭い区画に差し掛かればあの静止が繰り返されるのだろうと、誠はどこか諦め混じりに思っていた。
「監督、次の区画いくよ」
ミラの声で、誠は思考を切り上げた。半月前とは違い、彼女の膜貼りにはもう迷いがない。掘削の後を追う速さも、厚みの加減も、体が覚え始めている証拠だった。
「今日はどこまで進める予定?」
「順調にいけば、また一歩分は伸びるだろう」
「監督、最近数字にしか興味ないよね」
「数字が全部教えてくれるからな。進み具合も、危なさも」
「そこは『お前の腕が上がった』とか言ってくれてもいいんじゃない?」
「上がってるのは数字が証明してくれる」
「もっと素直に褒めてほしんだけど」
「褒めてるだろ」
軽口を交わしながら、二人は次の区画へ向かった。今はまず、目の前の仕事だ。
その区画は、これまでで一番奥まった場所だった。両側の岩壁が迫り、天井も心なしか低い。ホルバの一団が慎重に鑿を入れ、ミラが後を追うように膜を貼っていく。作業のリズムはすっかり馴染んでいた。誠の班とホルバの一団も、今では休憩の合間に軽口を交わす者すらいる。
異変は前触れなく来た。
掘り進めていた面の少し上、これまで問題のなかった箇所から、乾いた音とともに小石がぱらぱらと落ち始めた。
誠の視界に、赤信号が一点、膨れ上がるように浮かぶ。
見る。
崩落の兆しは、掘削面ではなく、その上部の風化した層だった。掘り進んだ振動が、想定より速く伝わったらしい。表面からは見えない、内側だけの弱さだった。これまでの診断でも拾いきれない、ごくわずかな見落としだ。
判断する。
崩れる範囲は狭い。だが、真下に人がいる。
動く。
「そこ、退避しろ!!」
誠の声が響くのとほぼ同時、誠の班の一人が咄嗟に飛び退いた。だが完全には避けきれず、崩れ落ちた岩の端が肩をかすめる。男は体勢を崩し、その場に片膝をついた。
「大丈夫か!」
誠が駆け寄る。男は顔をしかめながらも、自分の足で立ち上がった。誠は肩に触れ、動く範囲を確かめる。骨が軋むような感触はない。
「……肩をちょっと擦っただけだ。動ける」
痛みに顔をしかめてはいるが、骨は無事のようだった。周囲の作業員たちが集まり、すぐに安堵の空気が広がる。
「大事にならなくてよかった」
「本当だ、肝が冷えたぜ」
「監督の声、あれ聞いてなかったら今頃どうなってたか」
「にしても、あんな上の方から来るとはな。誰も気づかなかった」
軽口混じりの声が上がる中、誠は男の肩の状態を確かめた。腫れはあるが骨折の様子はない。念のため作業を外れさせ、休ませることにする。周囲の緊張が緩み、いつもの現場の空気が戻り始めていた。
だがその時、誠は異様な気配に気づいた。
ホルバが、駆けてきていた。
いつもの淡々とした足取りではない。ほとんど転がるような勢いで、誠より先に男の前へ辿り着いていた。
「――大丈夫か、お前」
低い声が、はっきりと震えていた。ホルバの顔は、粉塵のせいだけではない色に青ざめている。両手で男の肩を掴み、傷の具合を確かめる指先が、細かく震えていた。
「動けるか。指は。頭は打ってないか」
矢継ぎ早の問いに、男本人が戸惑うほどだった。
「ああ……大丈夫だ。ちょっと擦っただけだ」
「本当か。無理はしてないか」
「本当に、平気だ」
男が何度も頷いてようやく、ホルバは詰めていた息を吐き出した。だがそれでも、しばらくその場から動かなかった。まだ何かを確かめ足りないような目で、男の肩から手を離せずにいる。
「今日はもう、休め。無理に手を動かすな」
「これくらい、平気だ」
「休めって言ってんだ」
いつもの素っ気なさとは違う、有無を言わせない強さだった。男は少し戸惑いながらも頷き、作業から外れた。
ホルバはその後ろ姿を、しばらく見送っていた。何か言いかけて、口を閉じる。誠にはその一瞬、言葉が喉元まで出かかって、飲み込まれたように見えた。
ロフが遠くから、複雑な表情でその光景を見ていた。何かを知っている顔だった。だがそれ以上は、誰も口を開かなかった。他のホルバの一団の面々も、いつもより静かに手を止めて見守っている。まるで、こうなることを予期していたかのように。
誠は少し離れた場所から、その一部始終を見ていた。
軽傷で済んだ。誰も責めていない。誠自身、これは工事につきものの、確率の低い部類の事故だと理解していた。山を相手にする以上、完全に読み切れない部分は必ず残る。段取りのミスとは言えない範囲の話だ。
それでも、ホルバの反応は明らかに度を越していた。
現場の責任者として気を配る、というだけの反応ではない。もっと切実な、何かを取り戻そうとするかのような必死さだった。まるで、目の前の一人を失いかけたことが、今日の出来事だけでは済まない何かと重なっているような。
ホルバはようやく手を離すと、何も言わずに背を向けた。誠と目が合いかけたが、逸らされる。いつもの投げやりでも、拒絶の硬さでもない。もっと剥き出しの、隠しきれなかった素の反応だった。
その横顔に、誠は一瞬だけ、集落で初めて対面した時と同じ疲れを見た気がした。試すような目の奥にあった、あの諦観と同じ色だ。あの時は理由がわからなかったが、今は少しだけ、輪郭が見えかけている。
夕方、道具を片付けるホルバの手元は、まだどこか落ち着かないように見えた。誠は声をかけようとして、やめた。今聞いても、答えは返ってこないだろう。
それでも、誠の中でいくつかの断片が繋がり始めていた。「怪我人が出たらどうする」という、初対面の日の問い。「潰れられちゃ困る」という、着工前夜の一言。そして今日の、度を越した必死さ。
一つ一つは、責任感の範囲で説明がつく。バルドのように仕事に厳しい職人なら、部下の怪我に動揺するのはおかしなことではない。だが重ねてみると、そこには一貫した何かがある気がした。単なる責任感というには、震えが大きすぎる。単なる心配というには、目の色が昏すぎる。誠がこれまで見てきたどの反応とも、種類が違っていた。
誠は前世の記憶を、ふと思い出していた。現場で大きな事故を経験した人間は、似たような反応を見せることがある。過去に何かを見た者だけが持つ、体に染みついた恐れ。理屈より先に、体が動いてしまう類のものだ。誠自身、悠真を庇った瞬間の記憶は、今でも不意に蘇ることがある。
もしそうだとすれば、ホルバが抱えているのは、単なる几帳面さでも、頑固さでもない。もっと重く、もっと長い年月をかけて刻まれた何かだ。
確信だけは、誠の中で強くなっていた。
これは、ただの責任感ではない。もっと深いところにある、何年も抱え続けてきた何かだ。
――あの反応の重さは、今日一日の話じゃない。
次回の更新は、9月4日 21:10を予定しています。
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