第51話 現場監督、一瞬の静止に気づく
鑿の先が岩に食い込む音が、峠道に規則正しく響き始めた。
エーレン峠、着工初日。ホルバの一団が交代で掘削面に取りつき、粉塵が朝の光に白く舞う。掘っては止め、掘っては止め。誠が説明した通りの短い間隔で、少しずつ、しかし着実に岩が削られていく。急がず、途切れさせず。
一度に掘り進む長さは、思っていたよりずっと短かった。数十センチ掘っては手を止め、すぐにミラが膜を貼る。また広がったら掘り進む。誠はその一連の動きを、崩れる隙を与えない歩幅だと理解していた。大きく踏み出せば速いが、その分足元がすくわれやすい。小さく確実に踏み出す方が、結局は早く着く。
誠は少し離れた場所から、切り出された岩の断面を確かめた。狙った通りの深さ、狙った通りの角度。狂いはない。
「監督、こっち終わったよ」
ミラの声に振り返ると、掘り終えたばかりの面に、薄く滑らかな層が広がっていた。継ぎ目もなく、卵の殻のように全体を覆っている。
「うん、悪くない」
「『悪くない』じゃなくてもっと褒めてくれてもいいのに」
「褒めるのは、これが十日、二十日続いてからだ」
「厳しいなあ、うちの監督は」
ミラは唇を尖らせたが、すぐに次の区画へ向かう足取りは軽かった。掘る者と、支える者。二つの作業が、少しずつ一つの呼吸に近づいていた。
初日の進み具合は、誠の見立てよりわずかに慎重だった。無理に速さを求めず、互いの間合いを測るような一日だった。それでいい、と誠は思う。急いで壊すより、遅くても崩れない方がずっといい。
昼を過ぎた頃には、掘る側と支える側の呼吸に、わずかながら型のようなものが生まれ始めていた。誰かが号令をかけるわけでもないのに、鑿の音が止むと同時にミラが動き出す。まだぎこちないが、確かな兆しだった。
数日が経つ頃には、掘削と膜貼りの間合いは目に見えて縮まっていた。ホルバの一団が鑿を打つ音の合間に、ミラが遅れず滑り込むように層を貼っていく。最初の日は掘削のたびに待たされていたのが、今ではほとんど途切れない流れになっている。
進捗を記録した紙には、一日ごとの掘進距離が並んでいた。初日はわずか半歩分にも満たない長さだったが、二日目には倍近くに伸び、三日目にはさらに伸びている。数字だけを見れば地味だが、誠にとってはその「伸び」こそが何よりの証拠だった。息を合わせる速さそのものが、数字になって表れている。
「嬢ちゃん、そこはもう少し薄くていい。厚過ぎると乾きが遅くなるからな」
若い男――名は未だに名乗らないが、初日にミラの杭打ちを一瞬で仕留めた男だ――が、通りすがりに声をかけてくる。素っ気ないが、確かに助言だった。
「わかった。あと、あなたの名前は?」
「……ロフだ」
短く答えて、男はまた自分の作業に戻っていく。それだけのやり取りだったが、初日の無言とは明らかに違っていた。休憩の合間には、誠の班の何人かがホルバの一団と道具を貸し借りするようになり、水筒を回し合う姿も見えるようになった。二つの集団は、言葉少ないまま、少しずつ噛み合い始めていた。
異変にミラが気づいたのは、着工から五日目のことだった。
峠道の中ほど、掘削面の幅が特に狭くなる区画に差し掛かった時だ。両側から岩が迫り、それまでの区画より一段、圧迫感のある場所だった。ミラは膜を貼るための位置取りをしながら、ホルバの動きを何気なく目で追っていた。
ホルバが岩肌に鑿を当てる直前、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
目を閉じ、片方の手のひらを岩に押し当てる。
一秒にも満たない静止だった。誰も気づかないくらい短い。他の職人たちは誰一人、手を止めもしなかった。だがミラは、その瞬間だけホルバの纏う空気が変わるのを見逃さなかった。祈るような、それでいて何かを堪えるような、一瞬の静けさだった。
すぐに、何事もなかったようにホルバは鑿を振るい始める。いつもと変わらない、淡々とした手つきだった。
周りで作業していたホルバの一団の誰も、その一瞬に目を向けなかった。見て見ぬふりをしているのか、それとも見慣れすぎて意識にも上らないのか。ミラにはどちらとも判断がつかなかった。少なくとも、初めて目にする類のものではなさそうだった。
「……監督、今の見た?」
作業の合間、ミラが小声で寄ってきた。
「ん?どうかしたか」
「ホルバさん、さっき掘る前に、一瞬だけ手を壁に当てて、目を閉じてた。ほんの一瞬。あそこだけ」
誠は記憶をたどった。見ていなかった。ミラに言われて初めて、その一瞬の意味を考え始める。
「他の場所でもやってたか」
「ううん。今のところだけ。しかも、この区画に入ってから、ずっとあの調子」
言われてみれば、ホルバの様子はいつもよりわずかに硬い気がした。動きそのものは変わらない。だが、纏う空気の密度が違う。
夕方、休憩の折に、誠はそれとなくホルバに切り出してみた。
「さっきの区画、何か違ったか」
「別に」
「壁に手を当てて、少し止まってたように見えたが」
ホルバの手が、道具を仕舞う動きの途中で、ほんの少しだけ遅くなった。
「癖だ」
短い一言だった。だがその素っ気なさは、いつもの投げやりな態度とは、明らかに質が違った。踏み込ませない、という硬さがあった。バルドの「渋々」でも、いつものホルバの「興味はあるが熱はない」態度でもない。三種類目の壁だった。
「癖、か」
「悪いか」
「いや」
それ以上、誠は聞かなかった。聞いても答えが返らないことは、声の硬さだけで十分にわかった。
ミラが横から、遠慮がちに口を挟んだ。
「ホルバさん、あの区画、他と何が違うんですか」
「何もねえ」
にべもない返事だった。だがミラは、そこで引かなかった。
「でも、絶対何かありますよね。あんな癖、意味もなく付くものじゃないと思います」
「……嬢ちゃんは、余計なことに首を突っ込む質か」
「気になったことは気になるんです」
ホルバはミラをしばらく見返していたが、やがて小さく息を吐いただけだった。答えるつもりはない、という態度だけがはっきりと伝わってきた。
少し離れた場所で、ロフが道具を片付けながらこちらを一瞥した。何か言いたげな顔をしたが、結局は口を噤み、そのまま作業に戻っていった。彼もまた、何かを知っていて、あえて触れずにいるようだった。
ホルバはそのまま道具を担ぎ、天幕の方へ歩いていく。その背中を見送りながら、誠は何かが引っかかったままでいた。
翌朝、誠は誰もいない時間を見計らって、問題の区画に【大地審眼】をかけてみた。
視界に広がる色は、他の掘削面と変わらなかった。青。健全。危険を示す赤も、注意を促す黄色も、どこにも見当たらない。岩質も、厚みも、これまで通った他の区画と大差ない。
技術的には、何の問題もない場所だった。
だとすれば、あの一瞬の静止は何だったのか。岩を診ているのではない。もっと別の何かを、確かめている。誠の中で、いくつかの可能性が浮かんでは消えた。過去にここで何かがあったのか。それとも、この形の狭さそのものに、何か覚えがあるのか。
坑道の仕事を何十年、何百年と見てきたという話だった。その年月の中で、今のような一瞬の癖が染みついた理由が、一度きりのものとは思えなかった。何度も、何度も繰り返されてきた何かの跡。誠にはそう感じられてならなかった。
答えの出ない問いを抱えたまま、誠は次の区画へ足を向けた。作業は止まらない。だが、頭の隅にはずっと、あの一瞬の静止が残り続けていた。
――技術じゃないなら、何を見てるんだ、あの人は。
次回の更新は、9月3日 21:10を予定しています。
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