第50話 現場監督、山に卵の殻を教える
エーレン峠の朝は、これまでとは違う音で始まった。
木箱を下ろす音、鑿や槌が触れ合う金属音、荷車の軋み。ホルバの一団が、資材と道具を峠道の入り口に運び込んでいる。誠たちの班と合わせると、これまでで一番の人数だった。
二つの集団は、まだ馴染んでいなかった。誠の班が挨拶をしても、ホルバの一団は短く頷くだけで、すぐに自分たちの荷解きに戻っていく。無愛想というより、余計な会話に時間を割かないという徹底ぶりだった。道具の並べ方一つとっても、種類ごとに寸分違わぬ並びで、迷いがない。
「監督、あの人たち、全然喋らないね」
ミラが小声で言う。
「喋らなくても手は動いてる。今はそれでいい」
朝日が斜面を照らし始めていた。乾いた岩の匂いに、まだ夜露の湿り気が混じっている。虫の声より先に、金属を打つ音が谷に響き渡る。ここから、山を相手にした仕事が本当に始まる。
「まず、入り口を確定する」
誠は先日目星をつけたふもと寄りの一角へ向かった。ホルバの一団の一人が、道具を担いで無言でついてくる。
測量は驚くほど速かった。誠が杭の位置を指示すると、ほとんど言葉を交わさないまま、二人がかりで正確に打ち込んでいく。目盛りも紐も使わず、目測と手の感覚だけで水平を出しているように見えた。
「速いな」
「これくらい、いつものことだ」
短く返してきたのは、若い男だった。名乗りもせず、また作業に戻る。
ミラが杭打ちを手伝おうと土魔法で位置出しをしかけたが、ホルバの一団はそれより先に、力任せでも魔法任せでもない手つきで杭を仕留めてしまった。
「……魔法、使わないんだ」
ミラが呟く。
「山の中じゃ、魔力より手の感覚の方が信用できることもある。彼らの流儀なんだろう」
「監督の言う『体で覚えた精度』みたいなものかな」
「まぁ、それに近いな」
「私、魔法があれば何でも速くできると思ってた。……ちょっと悔しいかも」
ミラは唇を尖らせながらも、若い男の手元をじっと観察していた。杭を打つ角度、力の入れ方、一つとして無駄な動きがない。真似できるものならしたい、という目だった。
杭が一列に並んだ頃には、入り口の輪郭がはっきりと地面に刻まれていた。誠の頭の中の見当と、実際に打たれた杭の位置は、ほとんど誤差がなかった。
「支保の話をしよう」
誠がそう言うと、ホルバがようやく作業の手を止め、こちらへ歩いてきた。ミラも道具を置いて集まる。
「掘った穴は、放っておけば必ず崩れる。だから普通は、太い柱や梁で外側から支える」
誠は地面に転がっていた小石を拾い、卵形に丸めた土くれの上に置いた。
「だがこれを見てくれ」
指先で軽く押しても、丸い土くれは崩れなかった。
「卵の殻は薄い。なのに、全体が途切れない曲面になってると、ちょっとやそっとじゃ潰れない。力が一点に集まらず、殻全体に散らばるからだ」
「岩で同じことをする気か」
ホルバが低く聞いた。
「そうだ。掘った直後、まだ緩んでいないうちに、掘った面へ薄い膜のような支えを回す。太い柱で押さえ込むんじゃなく、山自身に――卵の殻みたいに、自分の形で自分を支えさせる」
「薄い膜って、何で作るの?」
ミラが首を傾げた。
「そこでお前の出番だ」
誠は少し離れた岩肌を指した。
「掘った直後の面に、土魔法で薄く固い層を編むように貼り付けるんだ。分厚く盛る必要はない。むしろ薄く、途切れなく、全体を覆うことの方が大事だ」
ミラは目を閉じ、しばらく岩の質感を確かめるように手をかざしていた。やがて小さく頷き、掌をかざした場所に、薄く滑らかな層が広がっていく。剥がれず、途切れず、曲面に沿って一枚の膜のように岩肌を覆った。
「……こんな感じ?」
「上出来だ」
誠はその感触を指先で確かめた。薄いのに、押しても軋まない。卵の殻と同じ理屈が、確かにそこにあった。
ホルバはしばらく黙ってその層を見つめていた。指で叩き、耳を近づけ、また叩く。
「――理屈は、わかった」
「早いな」
「岩の質を見りゃ、通じる理屈かどうかくらいはわかる」
だが、すぐには納得しきらない様子で続けた。
「掘る速さが、膜を貼る速さより先に行ったらどうなる」
「その区間が丸裸で残る。崩れる」
「逆に、膜ばかり貼って掘りが遅けりゃ」
「それはただの足踏みだ。日数だけ食われる」
「……ちょうどいい速さを見誤ったら、終わりってことか」
「見誤らないための工程表だ。毎日の掘り進み具合と、膜の状態を記録して、次の日の速さを決める」
ホルバの手が、また止まった。
素っ気ない返事の割に、その理解の速さに誠は驚いていた。バルドのように咀嚼に時間をかけるでも、疑って何度も聞き返すでもない。ホルバは一度で飲み込み、それで終わりにした。
「明日から、実際に掘り進める。俺の班とお前のところの一団、掘りと膜貼りをどう分ける」
「掘りはこっちで請け負う。膜貼りは、あの嬢ちゃんの魔法待ちになるってことか」
ホルバが顎でミラを示した。
「ああ。だから膜貼りの速さがそのまま全体の速さになる」
「なら、無理はさせるな。潰れられちゃ困るからな」
意外な一言だった。ミラが目を丸くする。
「……心配してくれるんだ」
「潰れた人手の分だけ、工期が延びる。それだけの話だ」
素っ気ない言い方だったが、誠はその一言に、先ほど交わした「怪我人が出たらどうする」という問いへの答えが、少しだけ形を変えて返ってきたように感じた。
「わかった」
それだけ言うと、ホルバはまた道具の方へ戻っていった。喜びも、意気込みも、どこにも見えなかった。技術そのものには興味を持っているはずなのに、仕事全体への熱がまるで乗ってこない。
「監督、なんか……変じゃない?」
ミラが小声で聞いた。
「わかりやすく反発するならまだいい。あれは、それとも違う」
誠の脳裏に、集落で見たホルバの目が蘇る。試すような、それでいて疲れ切ったような目。技術への興味と、仕事全体への諦めが、同じ人間の中に同居している。
日が傾く頃、道具を片付ける手が緩んだ隙に、誠の班の一人がホルバの一団へ水筒を差し出した。無言で受け取り、無言で飲み、無言で返す。それだけのやり取りだったが、朝よりは幾分か、間合いが縮んでいた。
夕方、杭と試し掘りの跡だけが残る峠道を見渡しながら、誠は道具を片付けるホルバの背中を眺めていた。
明日から、いよいよ山を掘り進める。準備は整った。技術も、段取りも、人員の組み合わせも、これ以上ないくらい練り上げた。
だが、あの背中に乗っている重さの正体だけは、まだ何もわかっていなかった。
――何かが、始まる前から終わってるみたいだ。
次回の更新は、9月2日 21:10を予定しています。
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