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第5話 現場監督、夜明けの溝を掘る

東の端がわずかに白み始め、鳥の声がぽつりぽつりと聞こえてくる。夜露を含んだ草が、誠のズボンの裾を冷たく濡らした。空気はまだ夜の名残で冷え、吐く息がかすかに白い。遠くで一番鶏が鳴いた。


村外れ、荷車の通り道に沿って、埋もれかけた側溝の跡があった。何年も手入れされていないのか、土砂が溜まり、雑草が根を張っている。


誠はそこで鍬を振り上げた。


土に鍬の先が食い込む感触。湿った土は重く、一振りごとに肩に響く。だが手が止まることはなかった。掘っては脇に積み、掘っては積む。単純な作業の繰り返しが、頭の中を静かに整理していった。体を動かしていると、余計なことを考えずに済む。それも、誠がこの作業を始めた理由の一つだった。


(まずは水の逃げ道を作ろう。何をするにしてもそれからだ)


日が昇るにつれ、村人たちが起き出してきた。


「おい、あれ何やってんだ」


「昨日の余所者だろ。頼まれてもねえのに」


遠巻きの声が、誠の耳にも届いていた。だが手を止めなかった。


「よう、物好きだな」


近づいてきたのは、上背のある若者だった。細身だが、農作業で鍛えた腕は太い。整った顔立ちに反して、口元だけがどこか斜に構えている。


「俺はテオだ。この村の若い衆をまとめてる。あんた、頼まれもしねえのにそんなとこに溝掘って何してんだよ」


「水はけが悪いと、この先またこの辺りの道が崩れます。今のうちに直しておいた方がいい」


「へえ。まあ好きにすりゃいいけどよ、村長も金は出さねえぞ」


テオは鼻を鳴らすと、他の若者と共に離れていった。ただの冷やかしではなく、どこか試すような目だった。本気で何かを変えようとする人間を、この村では長らく見ていないのだろう。誠はそう見当をつけて、鍬を振るい続けた。


しばらくして、誠は視界の端に小さな人影を捉えた。


ミラだった。昨夜の井戸端の少女が、少し離れたところから、怪訝そうな顔でこちらを見ている。


誠は手を止めずに声をかけた。


「見ての通り、溝を掘ってる。水の逃げ道がないと、雨のたびにこの道は死ぬからな」


ミラは何も言わず、じっと誠の手元を見ていた。土を掘る角度、鍬を入れる位置、積んだ土の置き方。誠が一つ掘るごとに、水が流れる筋がまっすぐに繋がっていく。


「……なんで、そんな風に真っ直ぐ掘れるの」


小さな声だった。誠は手を止めずに答えた。


「水は重力に従う。低い方に、まっすぐ流れたい方向がある。それに逆らわず、少し導いてやるだけだ」


ミラはしばらく黙っていたが、やがて自分の両手を見下ろした。


「あたしにも、手伝えることあるかな」


「土の魔法を使えるんだろう」


ミラの肩が、びくりと強張った。


「……使えるけど。役に立たないよ、あたしの魔法。形にするだけで、すぐ崩れるし。みんなにも言われてる」


「見せてくれ」


ミラは戸惑いながらも、側溝の続きに手をかざした。地面がゆっくりと盛り上がり、溝の形になっていく。だが誠はその過程をじっと見ていた。


盛り上がる土の量、変化の速さ。それは、これまで誠が見てきたどんな作業員の手作業とも比べ物にならない速度だった。


ただ、形が粗い。溝の深さも幅も、ばらつきがあった。


「止めてくれ」


ミラが手を止める。誠は掘り上がった土の山を見て、小さく息を吐いた。


この量を人力で埋めるには、何人がかりでも数日仕事だ。だが正しく型を教えられれば、この村の道は一月と待たず作り直せる。誠の中で、段取りの絵が急速に組み上がっていった。


「量はとんでもない。この深さと長さ、俺が鍬で掘ったら半日はかかる。それを数十秒だ」


「……でも、崩れるよ、すぐ」


「崩れるのは、締固めと水抜きを知らないからだ。土をどう並べれば強くなるか、知識がないだけで、出す力自体は規格外だ」


ミラが顔を上げた。


「お前は一人で重機三台分だ」


その言葉に、ミラは目を見開いたまま固まった。誰かに、そんな風に言われたことがなかった。役に立たない、地味な魔法、見下される力。そう言われ続けてきた自分の手が、今初めて、認められた気がした。目の奥が熱くなるのを堪えるように、ミラは俯いて何度も瞬きをした。


「……重機って、何?」


「気にしなくていい。とにかく、お前の魔力は本物だ。あとは俺が使い方を教える。それで十分戦力になる」


ミラの目に、戸惑いと、それを上回る何かが滲んでいた。


「あたし……手伝う。手伝ってもいい?」


「手伝ってくれると助かる」


誠は短く答え、鍬を持ち直した。ミラも、恐る恐る両手を土に向ける。


二人分の作業のペースが、少しずつ噛み合っていった。


昼が近づいた頃、小走りに近づいてくる足音があった。


「二人とも、お昼にしませんか?」


そう声をかけてきたのは、ハンナだった。手にした籠には、硬めのパンと、朝の残りらしいスープの入った鍋がある。湯気はもう立っていなかったが、匂いだけで誠の腹が小さく鳴った。籠を抱えるハンナの額には、ここまで急いできたのか、うっすらと汗が滲んでいた。


「すみません、わざわざ」


「いいんです、放っておけなくて。……村の人から聞いてはいたんですけど、本当に朝から掘ってたんですね」


ハンナは側溝を覗き込み、目を丸くした。まっすぐに伸びた溝の縁と、そこに寄り添うミラの姿に、驚きと、それ以上の何かが浮かぶ。


「ミラちゃんも、手伝ってるの?」


「……うん」


短く答えたミラの声は硬かったが、頬はわずかに紅潮していた。ハンナはそれ以上何も聞かず、ただ小さく笑ってパンを二人に手渡した。


少し離れた場所から、テオがその様子を眺めていた。何か言いたげに口を開きかけたが、結局そのまま踵を返し、仲間の元へ戻っていった。その背中に、さっきまでの冷やかしとは少し違う色が混じっていた気がした。


パンは硬く、噛むほどに小麦の素朴な甘みが広がった。スープはぬるくなっていたが、根菜の出汁は変わらず体に染みた。誠はそれを一息にかき込み、また鍬を手に取った。


昼が近づく頃、誠はふと空を見上げた。


西の空に、灰色の雲が重く垂れ込め始めている。さっきまでの青空が、じわりと侵食されていく。風が変わり、湿った土の匂いが強くなった。降るとしたら、今日の作業はここまでだ。誠は頭の中で段取りを組み直し始めた。


遠くで、低い音が響いた。


遠雷が、村の空に低く響いていた。

次回の更新は、7月15日 21:10を予定しています。


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