第47話 現場監督、様付けに慣れない
もう夏か、と誠は空を仰いだ。
青々とした麦畑の上を、入道雲がゆっくりと形を変えていく。乾いた土の匂いに混じって、刈ったばかりの草の匂いが強い。虫の声はまだ本調子ではないが、日差しはすでに真夏の色をしていた。
誠は村の外れ、去年直した側溝の脇にしゃがみ込んでいた。石組みの継ぎ目が一箇所、雨で少し洗われている。放っておけば冬までに広がる程度の傷だが、【大地審眼】をかけると案の定、黄色信号が点る。
「監督、そこ、去年直したばっかりじゃない?」
誠の下で土魔法を学ぶ弟子のミラが、顔を出して呆れたように言う。
「直したのは石組みだ。継ぎ目の目地は消耗品だからな。放っておいて悪化するまで待つと、結果的に高くつく」
「……爵位もらってもそういうの変わらないんだね」
「変わる理由がないだろう」
答えながら、誠は目地に詰める土を練り直す。この一年で一番変わったのは、自分の呼ばれ方の方だった。
「誠様、こちらにいらしたか」
振り返ると、村の顔役を務める老人ドルガが杖代わりの鍬を突きながら歩いてくるところだった。誠の顔を見て、老人はばつが悪そうに咳払いをする。
「――誠でいいって。慣れてないのに様付けされると、こっちの手元が狂う」
「そうは言うがな。騎士爵様を呼び捨てにする村など、外聞が悪かろう」
「俺には、外聞より目地の方が大事だ」
ドルガが喉の奥で笑った。慣れない敬称に村中がまだぎこちない。それでいい、と誠は思う。呼び方が変わっても、やることは変わらない。
爵位をもらってから、村の見え方が変わったわけではなかった。相変わらず側溝は目地から傷むし、雨樋は詰まる。ただ、以前は「勝手にやる変人」だった仕事が、今は「騎士爵様のお務め」と呼ばれる。中身は同じ土いじりなのに、周りの態度だけが先に変わっていくのが、誠にはどうにもむず痒かった。
そこへ、遠くから馬の足音が近づいてきた。
「――監督」
聞き覚えのある声に顔を上げると、馬を降りたセラが土埃を払っているところだった。セラは辺境伯家に仕える文官で、治水の頃から現場に何度も足を運んできた顔なじみだ。定期巡察にしては装いが少し改まっている。書類挟みを小脇に抱え、表情はいつもより硬い。
「珍しいな、この時期に」
「辺境伯からの正式な呼び出しです。今日中にクロイツェンまで来ていただきたいと」
「急ぎか」
「急ぎというより……規模が違います」
セラは言葉を選ぶように一拍置いた。
「治水の時とは、桁が違う話だと思ってください」
その言い方に、誠は手にした鏝を置いた。目地の修繕どころではなくなった。
「わかった。支度する」
支度と言っても、着替えと最低限の荷だけだ。家に寄ると、物音を聞きつけたハンナが顔を出した。ハンナは村に暮らす未亡人で、生活面で誠が何かと世話になっている。
「クロイツェンまで? ……なら、これ持って行って」
差し出されたのは、布に包んだ焼き菓子だった。まだほんのり温かい。
「急に決まったのにか」
「監督様、支度に時間かける人じゃないでしょう」
からかうような言い方に、誠は思わず苦笑した。それだけで、胸の底の緊張が少し緩む。
背後でミラが立ち上がる気配がした。
「私も行く?」
「いや、今日は呼ばれてない。留守を頼む」
ミラは少し不満げな顔をしたが、すぐに引っ込めた。
「……行ってらっしゃい、監督」
短い一言に、誠は片手を上げて応えた。
◇
馬を並べて街道を行く間、セラはほとんど口を開かなかった。書類挟みを抱えたまま、時折思い出したように手綱を握り直す。
「そんなに畏まらなくていい。俺相手だろう」
「畏まってはいません。……ただ、今日の依頼をどう切り出すべきか、道中で考えていただけです」
「切り出し方まで文官が悩むことか」
「規模が大きい依頼ほど、最初の伝え方一つで受け取り方が変わりますから」
生真面目な答えに、誠はふっと口元を緩めた。相変わらずだ。
街道が緩やかな上りに差し掛かった頃、北の空にひときわ荒々しい稜線が見えた。他の山より一段低く、そこだけ道が刻まれたように窪んでいる。
「あれか」
「ええ。あれがエーレン峠です」
遠目にも、崩れた岩肌の色が斑に見えて取れた。まだ何も診てはいないのに、誠の中で【大地審眼】が疼くような感覚があった。
クロイツェンに着く頃には、日はすでに傾きかけていた。
城の応接間に通されると、この地を治める辺境伯のレオンは、すでに机に地図を広げて待っていた。窓から差し込む西日が、広げられた紙の上を赤く染めている。セラは一礼して壁際に控え、書類挟みから帳面を取り出す構えを見せた。
「待たせたか」
「いや、丁度いい」
レオンは指先で地図の一点――西の山並みを叩いた。
「エーレン峠だ。知ってるな」
「北へ抜ける唯一の峠道だろう」
「その峠が、もう何年も前から半分死んでる」
レオンは地図の脇に置かれた帳面を寄越した。数字が並んでいる。誠はそれに目を通した。
「隊商の通行数が、右肩下がりだな」
「昔は月に三十を超える隊商がここを越えていた。今は五つ来ればいい方だ。ほとんどが北の迂回路に流れている」
「迂回路の方が楽なのか」
「楽なんじゃない。エーレン峠が崩落だらけで、命懸けだからだ」
レオンの声に苦さが混じった。
「関税も宿場の実入りも、迂回路を通る側の領に持っていかれている。年に金貨換算で千は下らない額をな。うちの懐が痛いだけならまだいい。峠を諦めた分、村の暮らしも痩せていく」
誠は帳面の数字を目で追いながら、頭の中で別の数字を重ねていた。損失額、通行不能日数、崩落箇所の推定規模。
「五年前との比較も出してあります」
セラが一歩進み出て、別の頁を開いて見せた。
「崩落箇所が三か所から七か所に増えています。放っておけば、あと数年で完全に道として機能しなくなるかと」
「直しても直しても追いつかない、ってことか」
「これまでの補修は、いわば延命でした。今回、辺境伯様が求めているのはそこの見極めです」
「――峠を、通す気か」
「補修じゃ足りない。抜本的にやってほしい」
レオンが身を乗り出した。
「山の下に、道を通せないか」
一瞬、誠は言葉に詰まった。堤防でも橋でもない。相手は山そのものだ。
「山を、貫くのか」
「坑道を掘る連中がいるだろう。あれの、道版だ」
誠の頭の中で、それが一つの言葉に変換される。
――隧道。
これまでとは種類の違う難しさだった。土や水は、癖はあっても相手の顔が見える。岩盤は違う。掘った瞬間まで中身がわからない。
だが同時に、頭の別の部分がすでに算段を始めていた。
――地上の工事は雪が降れば止まる。だが山の中は違う。
一年で最も工期を圧迫していた季節が、この仕事に限っては障害にならないかもしれない。
「やれるのか」
レオンの声に、誠は顔を上げた。
「わからん。岩盤を相手にするのは初めてだ。とりあえず、山を見てみないことには何とも言えない」
「見立ては?」
「今言えるのは一つだけだ」
誠はレオンを見据えた。
「これは今までで一番、時間のかかる仕事になる」
「かまわん。北の連中に食われ続けるくらいなら、何年かけてでも取り返す」
レオンの目に、誠が見慣れた種類の光が宿っていた。損得だけでは動かない目だ。
「――わかった。まずは山を見せてもらう」
城を出る頃には、日はすっかり落ちていた。
馬上から西を仰ぐと、夕闇に沈みかけた山並みの稜線が、まだかすかに紫色の光を残していた。あの稜線のどこかに、エーレン峠がある。
橋も、堤防も、最初は「できるわけがない」と言われた。だが今度の相手は、これまでのどれとも違う。
土でも水でもない。山そのものだ。
前世でも、山岳トンネルの現場は花形と言われながら誰も好んで手を挙げなかった。地質が読めない、工期が読めない、事故の質が違う。だからこそ、まともにやり切った現場は現場監督としての格が一段上がる。
不謹慎かもしれないが、腹の底がわずかに熱くなるのを誠は感じていた。
誠は手綱を握り直した。
――さて、どんな面をしているのか。
次回の更新は、8月30日 21:10を予定しています。
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