第46話 現場監督、爵位を段取りに組み込む
城の応接間は、初めて通された日と同じ配置のままだった。だが今日、誠を出迎えたのは、朝靄でも冷えた石壁の空気でもなく、レオンとセラの改まった表情だった。
「わざわざすまないな」
レオンが切り出す。セラは記録帳を机に置き、誠の前に一枚の紙を差し出した。古い水害の記録だった。
「十二年前の記録です。目を通してください」
誠は紙に目を落とした。氾濫の規模、被害の範囲、そして――失われた村の名。ローデン川沿いにあった、もう地図にも残っていない集落の記録だった。紙は黄ばみ、文字も所々かすれている。だが、そこに記された数字だけは、はっきりと読み取れた。
「これが、あの日の……」
「俺がまだガキだった頃だ」
レオンの声が、低くなった。
「夜中に叩き起こされて、丘の上まで走らされた。振り返ったら、村がひとつ、水の中に沈んでいくのが見えた。今回の増水は、記録に残る水位で見れば、あの時とほぼ同じ規模だった」
セラが、二枚の紙を並べて机に置いた。
「十二年前――死者、行方不明者、合わせて四十一名。田畑の損失、金貨換算で二千枚超。集落そのものが地図から消えました」
セラは隣の紙を指した。
「今回――死者ゼロ、行方不明者ゼロ。被害は未完成区画の一部にとどまり、その額は十二年前の百分の一にも及びません」
数字の羅列だったが、誠にはその重みが痛いほど分かった。四十一という数字の裏に、四十一の悠真がいた。同じ川、同じ規模の水が、まったく違う結末を辿った。その差を生んだのが、段取りと締固めという、地味で目立たない仕事だったという事実に、誠自身、あらためて息を呑んだ。
「これは、あなたの功績です」
セラの声は、いつになく熱を帯びていた。
「轟誠」
レオンが、初めてその呼び方をした。
「今日、来てもらったのは、その功績への礼だ。……騎士爵を、お前に授けたい」
「爵位、か」
「騎士爵だから一代限りだ。世襲はさせられない。今のうちの領地に、そこまでの余力はない。だが、それでも意味はある」
誠は、すぐには言葉が出なかった。前世で、地位や肩書きを笠に着る人間を、嫌というほど見てきた。ヘルメットも汚さず現場に来て、命令だけを残していく男たち。工期を理由に安全を後回しにし、それでいて事故の責任だけは現場に押しつける。爵位という言葉は、誠の中で反射的に警戒を呼び起こした。
「……正直、あまり、良い印象がない。地位のある人間には」
「だろうな」
レオンは、意外にも頷いた。
「だが、聞いてくれ。今回、お前が現場で判断できたのは、俺が全部の権限を後ろで支えていたからだ。もし城代の一件のように、お前より強い立場の誰かが横槍を入れてきたら、お前には、それを跳ね返す術がない」
「今回は、たまたまレオンが味方だった」
「その『たまたま』が、いつまでも続くとは限らない」
レオンは机に身を乗り出した。
「俺の親父は、十年間、頭を下げ続けた。だが、爵位はあっても、それを裏付ける実績も、後ろ盾もなかった。だから、何を言っても軽く扱われた。……お前は逆だ。実績はもう十分にある。足りないのは、それを軽んじさせない立場だけだ」
「爵位がないと、守れないものがある。俺は、それを痛いほど知ってる」
その一言が、誠の中に静かに落ちた。
前世での反発は、消えたわけではない。だが、今、目の前にいるのは、地位を誇示する男ではなかった。地位がなかったせいで、何も守れなかった男の息子だった。同じ「地位」という言葉でも、使い方次第でまるで違う顔を持つ。誠は、その両方を、この数ヶ月ではっきりと見てきた。
誠は、崩落現場の記憶を思い出していた。悠真を庇って死んだあの日、自分にもっと強く物を言える立場があれば、そもそもあの現場は止められたかもしれない。「素人の勘」と切り捨てられずに済んだかもしれない。段取りだけでは、守り切れないものがある。それを、レオンは自分の父親の死に物狂いの十年で、誠よりずっと早く知っていた。
「城代の一件も、俺が雇われの立場だったから、あそこまで長引いたんだ」
誠は静かに言った。
「立場さえあれば、もっと早く止められたかもしれない」
「そういうことだ」
レオンは頷いた。
「……分かった」
誠は、静かに頷いた。
「受ける。ただし、俺は現場を離れない。爵位は、現場を守るための道具として使わせてもらう」
レオンは、初めて破顔した。
「それでいい。むしろ、それ以外の使い方をされたら、俺が困る」
「肩書きが増えても、やることは変わらない。測って、段取って、積む。それだけだ」
「お前らしいな、それも」
レオンは笑いながら、机の上の記録帳を閉じた。
セラが、記録帳に何かを書き込みながら、小さく口の端を上げた。
「叙爵の手続きは、追って進めます。……おめでとうございます、誠さん」
その呼び方に、誠は一瞬言葉に詰まった。「誠さん」という響きに、これまでとは違う距離の近さを感じた。
村に戻ると、知らせはすでに広まっていた。
ドルガが真っ先に駆け寄り、誠の肩を何度も叩いた。ミラは目を丸くしたまま、しばらく言葉が出ない様子だった。
「監督が、貴族に……」
「一代限りだ。偉くなったわけじゃない」
「でも、すごいことでしょ、それ」
ミラの声には、素直な誇らしさが滲んでいた。
その夜、村では急ごしらえの祝宴が開かれた。ハンナが腕によりをかけた料理を並べ、ガルフが差し入れの酒を開け、ガインの部下たちまで加わって、賑やかな笑い声が夜遅くまで続いた。
治水の完成と叙爵の知らせは、クロイツェンの町にも届いていた。バルドは報せを聞くなり、仕事を弟子に任せて馬を飛ばし、日が暮れる頃には息を切らして村に駆けつけていた。
「ヴァルガも、これには文句はあるまいよ」
バルドが太い声で笑いながら、誠の杯に酒を注いだ。ガルフはただ黙って頷き、分厚い手で誠の肩を叩いた。それだけで、十分すぎるほど伝わるものがあった。
テオは相変わらず伝法な調子で誠に酒を注ぎながら、少しだけ改まった声で付け加えた。
「監督がいくら偉くなろうが、俺のやることは変わらねぇ。これからも頼むぜ、監督」
ドルガは村人たちの輪の中心で、何度も同じ話を繰り返していた。十二年前の氾濫の話、そして今回のこと。語るたびに、声が少しずつ大きくなっていく。
ミラは、誠の隣で黙って料理をつつきながら、時折こちらの様子を窺っていた。
「監督、これからも、監督って呼んでいい?」
「呼び方が変わる理由がないだろ」
「よかった」
ミラは小さく笑うと、また料理に手を伸ばした。その横顔に、気負いはもうどこにもなかった。
誠は、賑わう村の輪の中で、ふと夜空を見上げた。
異世界に来てから、ずっと同じことをしてきた。測って、段取って、積む。道を直し、橋を架け、堤を積んだ。そのすべてが、今この村の灯りを支えている。前世では、どれだけ積み上げても、上から一言で崩された。ここでは違う。積み上げたものが、ちゃんと誰かの命を守っている。
だが、まだ終わりではない。この領には、まだ手つかずのインフラが山ほど残っている。そして、その先には、爵位を持つ者だけが立ち入れる領域――中央との関わりも、いずれ避けられなくなるはずだった。レオンの父を十年間はねつけてきた、あの遠い場所と。
杯を傾けながら、誠は静かに、次の段取りを組み始めていた。
夜空には、雲一つない星が広がっている。この世界に来て、初めて見た夜と同じ星だった。あの時は、ただ戸惑うだけだった空を、今はもう、違う目で見上げている。
村の灯りが、いつまでも消えずに続いていくように。
誠はそう思いながら、村人たちの笑い声の中に、静かに紛れていった。
次回の更新は、8月23日 21:10を予定しています。
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