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第45話 現場監督、結果で語る

最後の一区画に土が盛られたのは、増水の夜から半月ほど経った、よく晴れた朝だった。


ミラが最後の層を締め終えると、堤の全長が、切れ目なく村から上流まで繋がった。冬の弱い日差しが、真新しい土の色を淡く照らしている。土埃の匂いと、乾いた冷気が入り混じって、現場全体を包んでいた。風は冷たいが、あの増水の夜のような刺々しさはもうない。


「監督、終わったよ」


ミラの声には、気負いも力みもなかった。ただ、静かな達成感だけがあった。村人たちが集まり、堤の全長を見渡している。誰も歓声は上げなかった。代わりに、誰もが長く息を吐いていた。ガインの部下たちも、警備の合間に足を止め、自分たちが守り抜いた堤を眺めていた。


誠は堤の端から端まで、ゆっくりと歩いた。杭を打った日、ミラが初めて模型を作った日、テオを助け出した夜――すべてが、この一本の線の中に積み重なっている。


その二日後、レオンとセラが視察に訪れた。


馬車が村外れに止まり、レオンが真っ先に降りてくる。セラがその後に続き、分厚い記録帳を小脇に抱えていた。


堤の前に立った瞬間、レオンの足が止まった。


「……これが、全部か」


「ああ、全区画完成した」


レオンは何も言わず、しばらく堤の全長を眺めていた。冬の光の下、切れ目のない土の壁が、川に沿って遠くまで続いている。旧堤防の名残は、もうどこにも見当たらなかった。


セラも隣で、同じように堤を見上げていた。表情には出さないが、記録帳を持つ手が、いつもよりわずかに強く握られている。


「話には聞いてたが……実物は、想像以上だな」


「実物を見ないと分からないことは多い」


誠が答えると、レオンは短く笑った。


セラが、記録帳を開きながら堤に近づいた。


「まず、契約仕様との照合をさせてください」


「どうぞ」


セラは断面図と本物の堤を、一つ一つ丹念に見比べていく。層の厚み、法面の角度、水抜きの位置――誠が提出した図面と、寸分違わず一致していた。指先で断面をなぞり、記録帳に一つずつ印をつけていくその姿は、初めて村道を検分した日から変わっていない。


「先日の増水時の記録は」


「ここに」


誠は懐から、水位の推移を記録した紙を取り出した。増水が始まった時刻、ピーク時の水位、そして完成区画と未完成区画での被害の差――数字が淡々と並んでいる。


セラはその紙に目を落とし、しばらく黙っていた。


「完成区画、被害ゼロ。未完成区画、応急補強で対応……」


「渡し場跡と上流の一部は、まだ工事中だったので、危険な状態にはなった。ただ、みんなで土嚢で凌いで、被害は最小限に抑えられた」


「その未完成区画も、今はもう完成している、と」


「はい」


セラは記録帳に何かを書き込みながら、小さく頷いた。


「実際の増水で耐えた実績がある堤防は、書類上の強度計算だけの堤防とは、重みが違います」


その声には、いつもの事務的な響きの奥に、確かな評価の色が滲んでいた。


レオンが、堤に手を触れながら口を開いた。


「セラ、去年までの氾濫の被害額、覚えてるか」


「毎年平均で、金貨にして七百枚前後。田畑の損失、修復費用込みです」


「今年、この堤があれば、そのほとんどが浮く計算になる」


レオンは指を折りながら続けた。


「それだけじゃない。渡し場が要らなくなった分、村と町を結ぶ人と物の行き来が、増水期でも止まらなくなる。行商の行き来が増えれば、税収も上がる。……まだ皮算用の域は出ないが、五年もすれば、この工事にかけた分は取り戻せるはずだ」


「五年、か」


「早い方だろう。うちの領地にしちゃ、上出来な投資だ」


レオンは笑ったが、目は真剣だった。


「もっとも、これは全部、これからの話だ。今年の収穫がどう転ぶか、来年の交易がどう伸びるか――実際の数字は、もう少し先にならないと出ない。だが、少なくとも、毎年決まって出ていく修復費用がなくなる。それだけでも、十分な成果だ」


セラが記録帳に何かを書き足しながら、静かに付け加えた。


「向こう五年間の見込み額は、報告書に別途まとめます」


「頼む」


レオンは堤に視線を戻し、続けた。


「それに、金の話だけじゃない。もう二度と、あの渡し場みたいな死に方をする者を出さずに済む。それだけでも、やる価値はあった」


その一言に、誠は思わずレオンの顔を見た。ハンナの過去を、レオンも知っているのだろう。多くを語らず、ただ事実として言葉にしただけだった。


「誠」


レオンが、ふと改まった声で名を呼んだ。


「この件については、後日、あらためて話がある。城の方へ、近いうちに来てくれ」


「話?」


「悪い話じゃない。今日のところは、この堤を見られただけで満足だ」


レオンはそれ以上を語らず、堤の上流側へ歩いていった。誠は、その背中に何か含みのようなものを感じたが、すぐには聞けなかった。


視察が終わると、村には静かな安堵が広がっていた。ドルガが鍬を杖に、堤を見上げながら誰にともなく呟いていた。


「これで、冬が越せる。……いや、来年の雪解けも、越せるな」


子供たちが堤の上を走り回り、ピノが真っ先にその先頭を切っていた。ハンナは炊き出しの支度をしながら、いつもより弾んだ声で村人たちに声をかけている。ガルフとテオが、片付けの手を止めて堤を見上げ、何やら言葉を交わしていた。もう、誰も崩れることを心配していない顔だった。


誠は堤の全長を、もう一度端から端まで歩いた。【大地審眼】に映る色は、どこも変わらず青い。土の下に、命を落とす者は出さない。あの日、悠真を庇って死んだ自分にはできなかったことが、この土地では確かに形になっていた。


村の日常が、少しずつ戻っていく。だが誠の頭の中には、レオンの言葉がまだ引っかかっていた。


城で、何を言われるのか。


見当のつかないまま、誠は工程表を懐にしまい、静かになった川面を見つめた。

次回の更新は、8月22日 21:10を予定しています。


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