第44話 現場監督、正念場を迎える
夜半、屋根を叩く音で誠は目を覚ました。
雨だった。だが、季節外れに生暖かい。冬の冷たい雨とは、明らかに質が違う。誠は跳ね起きると、外套も羽織らずに戸口へ向かった。
空気が、おかしい。
肌にまとわりつくような湿った暖かさが、夜の闇の中に満ちていた。遠くの山肌からは、かすかに水の流れる音がいつもより大きく響いている。雪解けだ。それも、想定していたよりずっと早い。
誠は堤へ走った。息が上がる。川音が、近づくにつれて明らかに大きくなっていく。長靴の底に、いつもより深く水が跳ねた。地面全体が、すでに湿りきっている。
堤の上に立ち、誠は堤の全長に手をかざした。
【大地審眼】が、川沿いの土地を一気に映し出す。
完成済みの重ね堤――ドルガの村を囲む区画、そして先日仕上げた最大区画。そこは、変わらず青かった。層の内側に水が浸み込んでいく気配はあっても、崩れる兆しはどこにもない。
だが、上流側の未完成区画は違った。黄色く滲んでいた土が、見ている間に赤へと変わっていく。そして、渡し場跡。まだ仮の応急補強しか施していないその場所も、同じ赤に染まっていた。
(想定より、だいぶ早い……)
誠は歯を噛みしめた。増水期はまだ先だと踏んでいた。だが、この暖かい雨と雪解けが重なれば、話は別だ。自然は、こちらの工程表など待ってくれない。
頭の中で、残された時間を逆算する。水位が今の速さで上がり続ければ、渡し場跡はおそらく二刻も持たない。上流の未完成区間はもう少し猶予があるが、油断はできなかった。
村へ駆け戻ると、すでに何人かが異変に気づいて外に出ていた。
「監督!」
ミラが真っ先に駆け寄ってきた。寝間着の上に外套を引っかけただけの格好だった。
「川が、変」
「ああ、見てきた。増水が来る。今夜中に」
誠は素早く頭の中で状況を組み立てた。完成区画は問題ない。危ないのは、上流の未完成区間と、渡し場跡。手が足りない中で、どちらを優先するか。
「渡し場跡を優先する。あそこが一番弱い」
ドルガが杖代わりの鍬を手に、家から飛び出してきた。
「監督、わしも動く。何をすればいい」
「村人を集めて、土嚢を運んでください。あるだけの土と、詰められる袋を全部」
「わかった」
短いやり取りだけで、村は動き出した。ガインが馬を飛ばして駆けつけ、護衛班に指示を飛ばす。ハンナは真っ先に、村の外れに残る老人と子供たちの避難誘導に走った。ガルフが大声で村人を呼び集め、まだ寝ぼけ眼の若者たちを次々と土嚢の列に押し込んでいく。
誰も、迷わなかった。この数ヶ月で、何をすべきかが、体に染み込んでいた。
「監督、資材小屋の土嚢、あるだけ持ってきました」
「助かる。渡し場の方へ全部回してくれ」
指示を出しながら、誠は同時に頭の中で人員を組み替え続けた。上流の未完成区間には、最低限の見張りだけを残す。手が足りない以上、すべてを同時には守れない。優先順位をつけることこそが、この夜の段取りだった。
渡し場跡に着くと、川はすでに牙を剥き始めていた。応急補強の土嚢が、濁流に洗われてぐらついている。誠は堤に手を当て、断面の弱い箇所を探った。
「ここと、ここ。土嚢を重ねろ。ミラ、締められるか」
「まかせて!」
ミラが両手をかざす。だが、辺りは暗く、足場も悪い。集中しづらい条件が重なっていた。それでも、彼女の手の中で土が締まっていく速度は、以前より確実に速くなっている。
「監督、水位がまだ上がってます!」
村人の一人が叫んだ。松明の灯りに照らされた川面が、じりじりと堤の縁に迫っている。誠は自分の腕時計代わりの感覚で、時間を数えた。あとどれだけ持つか。あとどれだけ、間に合わせられるか。
「テオ、上流側の様子を見てきてほしい。水位の変化を報告してくれ」
「ああ」
テオが松明片手に、上流へ駆けていく。護衛班の何人かが土嚢を担ぎ、次々と応急補強の弱い箇所へ差し込んでいった。誠は全体を見渡しながら、指示を飛ばし続けた。段取りが、頭の中で目まぐるしく組み変わっていく。優先順位、人の配置、資材の残り。すべてを同時に捌かなければならなかった。
雨足が、また強くなった。風も出てきている。松明の灯りが、あちこちで揺れ、消えかけては誰かの手で守られていた。誠は袖で顔の水を拭い、堤の断面に何度も手を当てて確かめた。土嚢一つ分、締める力一つ分――ここで凌げるかどうかが、この夜すべての結果を決める。
「監督!上流は危ない、水が――」
テオの声が、遠くから響いた。
誠は堤に手を当てたまま、【大地審眼】でその一角を透かした。
赤い色が、急速に濃くなっていく。テオが立っている足場のすぐ下、応急補強の土嚢が、まとめて崩れかけていた。
見る。判断する。動く。
「テオ、そこから離れろ!」
叫びながら、誠はすでに走り出していた。距離、崩れるまでの猶予、間に合うかどうか。考えるより先に、体が答えを出していた。
土嚢が崩れる音が、闇の中に響いた。テオが足を滑らせ、濁流の縁へ体が傾いていく。
誠は最後の数歩を跳んで、テオの腕を掴んだ。全体重をかけて引き倒す。二人分の体が、崩れる土砂の外側へ転がり出た。
冷たい飛沫が、二人の顔を叩いた。
「……っ、悪い……」
テオが荒い息の下で言った。
「大丈夫か」
「あ、ああ。足が滑って……」
誠はテオの肩を掴み、無事を確かめる。かすり傷程度で済んでいた。安堵の息を吐く間もなく、誠は崩れた箇所へ向き直った。
「土嚢、あるだけこっちに回せ!ミラ、締め直しだ」
ミラが息を切らしながらも、両手をかざす。崩れた箇所に、新しい層が急いで重ねられていく。ガインの部下たちが土嚢を次々と運び込み、村人たちが列を作って手渡しで支えた。
時間との勝負だった。水位は、まだ上がり続けている。
だが、夜が明ける頃、雨は次第に弱まっていった。上流の雪解けの勢いも、ピークを越えたのか、川音が少しずつ穏やかさを取り戻していく。
誠は改めて堤の全長を見渡した。
【大地審眼】が映す色を、一つ一つ確かめていく。完成済みの重ね堤――村を囲む区画、そして最大区画――は、一晩の増水を経ても、変わらず青いままだった。傷一つない。旧堤防なら、とうに崩れていたはずの水位だった。
対して、応急補強で凌いだ渡し場跡と上流区画は、赤から黄色へ戻りつつあったが、まだ本調子とは言えない。
「持ち堪えたな」
ドルガが、疲れ切った顔で堤に手を触れた。
「完成した場所は、な。まだ手をつけてない場所は、綱渡りだった」
誠は正直に答えた。今夜、間に合ったのは、ぎりぎりの判断と、皆が迷わず動いたからだ。運が良かった部分も、確かにあった。
テオが、少し離れた場所で泥だらけのまま座り込んでいた。誠が歩み寄ると、テオは顔を上げた。
「監督」
いつもの伝法な調子ではなく、どこか改まった声だった。
「助けてもらって、正直、情けない。……昔は、あんたのやり方を鼻で笑ってた側なのに」
「今、現場に残ってお前が水位を見に行ったから、崩れる前に気づけた。礼を言うのはこっちだ」
テオは何も言わず、ただ頭を下げた。
朝日が、川面に反射して眩しく輝いていた。誠は濡れた工程表を広げ、今夜の被害箇所に印をつけていく。渡し場跡、上流区画――まだ埋め切れていない場所の弱さが、これ以上ないほど明確な形で示されていた。
だが、完成した区画が耐えたという事実も、同じくらい明確だった。
ミラが、泥だらけの手のまま隣に来た。まだ肩で息をしている。
「監督、村の方、無事だった。ハンナさんが、みんなをちゃんと高台に上げてくれてた」
「そうか」
「完成してた場所、本当に、傷一つなかった」
ミラは堤に触れ、その硬さを確かめるように何度も撫でた。声には、疲労の底に隠しきれない誇らしさが滲んでいた。
ドルガも、少し離れた場所から歩いてきた。夜通しの作業で、足元がおぼつかない。それでも、その目には確かな光が残っていた。
「わしは、正直、半信半疑だった。話には聞いても、こうして自分の目で見るまでは」
「今は?」
「疑ってすまなかったな、とだけ言っておく」
ドルガは短くそう言うと、堤の上流、まだ手つかずの区画に目をやった。
「あそこも、早く埋めにゃならんな」
「ええ。急ぎます」
誠は、村の方角を振り返った。避難していた老人や子供たちが、少しずつ家へ戻り始めている。ハンナが、疲れ切った顔で温かい飲み物を配って回っていた。ガインの部下たちは、崩れた土嚢の後片付けに取り掛かっている。誰も彼もが、泥だらけで、疲れ切っていて、それでも生きてこの朝を迎えていた。
「これで、証明はできた」
誠は呟いた。
「あとは、残りを埋め切るだけだ」
雲間から差し込む朝日が、疲れ切った村人たちの顔を、じんわりと温め始めていた。誠は工程表を折りたたみ、懐にしまう。まだ終わっていない。だが、この一晩が示したものは、これから先の工程を裏付ける、何よりの証拠になる。
次回の更新は、8月21日 21:10を予定しています。
【お願い】
もし面白かったら、下のブックマーク(★)や評価で応援いただけると非常に励みになります!
(ブックマークは下の「ブックマークに追加」ボタンからお願いします)
【本作品のAI利用について】
本作品は「小説家になろう」の規定に基づき、生成AIを執筆・構成の補助として使用しております。
※本作品は「カクヨム」様にも掲載しております。




