第43話 現場監督、渡し場の跡を弔う
昼になると、いつものように大鍋の匂いが現場に漂ってきた。
ハンナが荷車を引いて、今日も炊き出しにやってくる。湯気とともに、根菜と干し肉を煮込んだ匂いが風に乗って広がった。冷えた体には、それだけでありがたい。
椀を受け取った村人たちの手が、まず温もりに緩み、それから匂いに誘われるように口へ運ばれていく。冬の現場で、この時間だけは誰の顔にも力が抜けた。
「今日はここまで来たのね。もっと奥かと思ってた」
椀を配りながら、ハンナが川の上流を見やった。誠は工程表に目を落とす。
「ああ。今日の区画は、あの先の渡し場跡まで」
「渡し場……」
ハンナの手が、一瞬だけ止まった。誠はそれに気づかなかった。椀を受け取る村人たちの声に紛れて、彼女はすぐにいつもの笑みに戻っていた。
作業は昼過ぎから再開された。渡し場跡の周辺は、長年放置されていたせいか、地面の下に古い瓦礫が多く埋まっていた。掘削班が丁寧に土を除けながら進む。
「監督、何か出てきました」
声をかけてきた村人の足元に、朽ちかけた木の杭が転がっていた。縄の切れ端が絡みついている。渡し舟を繋ぎ止めていた杭だろう。長年水に浸かっていたせいで、表面は真っ黒に朽ちていた。
ちょうど食事の椀を配りに来ていたハンナが、その杭を見た瞬間、動きを止めた。
手にしていた椀が、かたかたと小さく震えている。
「ハンナさん?」
誠が声をかけると、ハンナは我に返ったように瞬きをした。
「……ごめんなさい。なんでもないの」
その声は、いつもの明るさとは違っていた。無理に整えられた声だと、誠にも分かった。
しばらくして、村人たちが休憩に入った合間、誠はハンナに近づいた。何を聞くべきか、聞いていい傷なのか、迷いながらの一歩だった。だが、見なかったことにする方が、きっと不誠実だ。
「渡し場で何かあったんですか」
ハンナは、朽ちた杭が積まれた場所を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……主人が、そこで死んだの」
静かな声だった。
「うちの人、農閑期になると、村の作物を町まで売りに行ってた。あの渡し場を使って、川を渡って」
「増水の時に?」
「ええ。急な雨で、川が一晩で膨れ上がって。渡し場の杭が流されて、舟ごと」
ハンナは自分の手を見下ろした。椀を持つ指が、まだかすかに震えていた。
「その日の朝、いつもと変わらない顔で出ていったの。『今日は天気が怪しいから、早めに戻る』って」
「本当に、早めに戻ろうとしたんだと思う。だから、あの渡し場を急いで使った」
「助けを呼びに行った人はいたのよ。でも、間に合わなかった。……橋があれば、渡し舟なんて使わなくて済んだのに。そう思ったことが、何度もある」
誠は、何も言えなかった。慰めの言葉より先に、頭の中で別のことが動いていた。ここに橋があれば。ここに堤があれば。人はもっと、簡単に死なずに済んだ。前世で何度も見てきた光景と、同じ形をしていた。
養生シートを張るだけの半日を惜しんで、法面の異変を放置した現場があった。誘導員を一人減らされ、目の届かない場所で悠真が危うく命を落としかけた朝があった。
この世界に来てからも、根っこは同じだった。橋がないから人が流され、道が崩れて人が死に、堤が力任せに積まれて何度も裏切る。
誰かが「今回は仕方ない」と見過ごした分だけ、誰かの生活が音を立てて崩れていく。ハンナの喪失も、その延長線上にあった。
「今、あなたたちが直してる堤や橋を見るたびに、思うの。もっと早く、こういうものがあれば」
ハンナは小さく笑おうとして、うまくいかなかった顔で誠を見た。
「これ、あなたに話すの、初めて」
「話してくれて、ありがとうございます」
誠はそれだけ言った。安易に「大丈夫です」とは言わなかった。大丈夫になんて、ならない類の喪失があることを、誠は知っていた。時間が癒すという言葉も、簡単には使いたくなかった。
ただ、この先同じ思いをする者を、一人でも減らす。それが、自分にできる唯一の弔い方だと思っていた。
しばらくの沈黙のあと、誠は口を開いた。
「この渡し場、堤の計画に組み込みます」
「え?」
「今のままだと、堤の切れ目になる。増水期には、真っ先に危なくなる場所です。ここも、重ね堤で塞ぎます」
ハンナは、朽ちた杭にもう一度目をやった。
「……もう、渡し舟は要らなくなるのね」
「要らなくなります。ここを渡らなくても、村と町が繋がるようにします」
ハンナは長い間、堤の跡地を見つめていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「主人が生きてたら、何て言うかしらね。橋守も、渡し守も、みんな仕事を失うって、怒るかもしれないわ」
「怒るでしょうね。仕事を奪う話ですから」
「でも、たぶん、喜ぶと思う。あの人、川を渡るたびに怖い顔してたから。……あなたたちがやってること、あの人が一番、羨ましがりそうな仕事だわ」
誠は、渡し場跡に埋もれていた杭を、もう一度見下ろした。あの朽ちた木片一つに、誰かの日々の暮らしと、誰かの終わりが刻まれている。数字にも図面にもならない重さだった。
それでも、この重さを背負ったまま、次の工程に進むしかない。それが、段取りを預かる者の役目だと、誠は思った。
ハンナは椀を配る手を止め、しばらく川を眺めていた。誠は隣で、同じ方向に目をやった。渡し場跡の杭は、もうすぐ重ね堤の下に埋まる。二度と、誰の目にも触れない場所になる。それでいいのだと、誠は思った。
「監督」
少し離れた場所から、ミラが遠慮がちに声をかけてきた。ハンナの様子に気づいていたのだろう。手には、湯気の立つ椀がもう一つあった。
「ハンナさん、これ、まだ温かいうちに」
ハンナは、差し出された椀を受け取り、小さく笑った。今度は、無理に作った笑みではなかった。
「ありがとう、ミラちゃん」
ドルガも、少し離れた場所からこちらを見ていた。何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。この村で、ハンナの過去を知らない者はいない。だが誰も、それを声高に語ることはなかった。知っていて、あえて触れずにいる優しさが、この村にはあった。
ハンナは椀を両手で包み、湯気に目を細めた。
「あの人が死んでから、ずっと、この渡し場の方を見ないようにしてた。近づくのも、できるだけ避けてた」
「今日は避けられませんでしたね」
「ええ。でも……不思議と、思ったより平気だった。あなたたちが、ちゃんと視てくれてるから」
ハンナはそう言うと、村人たちの方へ椀を配りに戻っていった。その足取りは、来た時よりも幾分軽く見えた。
夕刻、誠は堤の全長を歩きながら、今日出た瓦礫の位置を工程表に書き込んだ。渡し場跡の区画には、他よりも念入りに印をつけた。優先して手を入れる箇所として、赤い印を重ねて描いておく。
冬の川面が、夕日を受けて赤く染まっている。かつてここで一つの命が流された川が、今は静かに、堤の完成を待っていた。
誠は指を折りながら、増水期までの日数を数え直した。
渡し場跡を含め、まだ埋め切れていない区画がいくつも残っている。今日拾い上げた重さを、無駄にはできない。
次回の更新は、8月20日 21:10を予定しています。
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