第42話 現場監督、重ね堤を名付ける
残る区画の中で、いちばん長い一枠が手つかずのまま残っていた。
これまでは、日をまたいで少しずつ仕上げてきた。だが冬の到来が、その悠長さを許さなくなっている。日の出から日没までの時間は、着工した頃よりも明らかに短くなっていた。誠は工程表を睨みながら、ミラに向き直った。
「今日、ここを一気にやる」
ミラの目が、堤の未着手区画をなぞる。他のどの区画よりも長い。これまで一日で仕上げてきた区画の、優に三倍はあった。
「一日で?」
「一日で。層を飛ばさず、締めも飛ばさず、それで一気に片付ける」
ミラは一瞬、息を止めた。それから、静かに頷いた。
噂は、思いのほか早く広まっていた。作業開始の頃には、集まった村人はいつもの倍近くになっていた。ガインの護衛班も、警備の合間にちらちらと視線を寄越している。ドルガも、鍬を杖代わりに、少し離れた場所に立っていた。子供たちの姿もあり、ピノは誰よりも前に出て、腕を組んで待ち構えている。
「今日、あの区画をやるんだって?」
「一日で終わらせるって、本当か」
「あの魔法使いの嬢ちゃんが、一人で?」
囁き声が、あちこちから聞こえてくる。期待と不安の入り混じった空気だった。誰もが、あの旧堤防が一日で作られ、そして何度も崩れたことを、まだ覚えている。同じ言葉が、別の意味を持って人々の間を巡っていた。
「監督、始めていい?」
「ああ。いつも通りにやれ」
ミラは大きく息を吸うと、堤の端に両手をかざした。
土が、静かに動き出す。
薄い層が、地面から立ち上がるように広がっていく。だが一息に盛られるのではない。ミラの手の動きに合わせて、まず一層。それがきゅっと圧縮され、密度を増す。続けて次の層が重なり、また圧縮される。層と層の間には、髪の毛ほどの細い筋が通り、水の通り道になっていた。
その動きは、決して速くはなかった。だが、止まりもしなかった。一定の速さで、着実に、堤が伸びていく。
見物していた村人の何人かが、不安げに顔を見合わせた。
「……大丈夫なのか、あれで」
「一気に盛ってるように見えるが」
呟きが漏れる。だがよく見れば、一気に積んでいるのではないと分かる。何層にも重なった断面が、ミラの手が過ぎるたびに、薄い縞模様となって浮かび上がっていた。土の色すら、層ごとにわずかに濃淡が違って見える。締まり方の密度が、そのまま影の濃さになって表れているのだと、誠は気づいた。
一刻が過ぎた。
堤は、もう半分近くまで伸びていた。旧堤防が一日で終わらせた仕事量に、確実に近づいている。だが、その中身はまるで違う。誠は歩きながら、時折堤に手を当てて確かめた。どの断面も、同じ密度で締まっている。ムラがない。
ガインが腕を組んだまま、隣の部下に囁いた。
「あの魔法使い……この前まで、あんな器用な真似できたか」
「いや、初めて見ます」
「街道の時は、土を持ち上げるだけで精一杯そうだったが」
観衆のざわめきが、少しずつ質を変えていった。不安げな囁きが、感嘆の声に置き換わっていく。
「速いのに、雑じゃない」
「本当に、層になってる……」
「うちの畑の土壁より、よっぽど丁寧だよ」
誰かが冗談めかして言うと、緊張していた空気に、小さな笑いが混じった。それでも誰も、目をミラの手元から離さなかった。
ミラの額に汗が浮かんでいた。息も、はっきりと荒くなっている。だが、手の動きに乱れはない。誠は少し離れた場所から、その様子を見守り続けた。声はかけない。今は、彼女の集中を邪魔する時ではなかった。段取りは、もう彼女の中にある。あとは、それをやり切るだけだ。
日が傾きかけた頃、ミラの手が止まった。
堤の未着手区画が、端から端まで、すべて盛られていた。
「……終わった」
肩で息をしながら、ミラが振り返る。誠は堤に歩み寄り、腹に手を当てた。
【大地審眼】が土の内側を透かす。
――青い。
端から端まで、途切れることなく青かった。層が幾重にも重なり、締固めの跡が規則正しく並んでいる。水の通り道も、計算通りに機能していた。旧堤防で見たあの赤とは、まるで別物だった。
誠は思わず、長く息を吐いた。
「見事だ」
その一言に、ミラの顔がくしゃりと歪んだ。泣くのを堪えているような、笑っているような表情だった。
誠は堤の全長に目を這わせながら、胸の内でもう一度確かめた。この土の下に、命を落とす者は出さない。あの日、崩落現場で悠真を庇って死んだ自分にはできなかったことが、ここでは形になっている。段取りが、ちゃんと人を守っている。
ドルガが、ゆっくりと歩み寄ってきた。堤に手を触れ、じっとその感触を確かめる。
「……硬い。わしが子供の頃に見た、あの堤とは、まるで違う」
「別物だ。あれは、力だけで作られていた」
「これは?」
「力と、段取りで作った」
ドルガは何度も頷いた。目の端が、わずかに濡れていた。
「あの日、村中で拝んだ堤は、結局わしらを何度も裏切った。……今日のこれは、拝まれるより先に、信じられる堤だな」
村人たちの間から、自然と拍手が起こった。ガインの部下たちも、口笛混じりに沸き立っている。
「監督ー!ミラ姉ちゃん、すごかったよ!」
ピノが真っ先に堤に駆け寄り、その硬さに驚いた顔で誠を振り返った。ガルフの太い笑い声、ハンナの弾んだ「まあ、本当に……!」という声も重なる。テオは腕を組んだまま、堤の断面をじっと睨むように見ていたが、やがて小さく口の端を上げた。
ミラは、集まってくる村人たちの声に圧されるように、少し後ずさった。褒められることに、まだ慣れていない。だが、その顔には、隠しきれない満足があった。
「なあ、監督」
人垣の中から、声が飛んだ。ガインだった。
「これ、何て呼ぶんだ。ただの『堤』じゃ、味気ないだろう」
「そういや、村道にも橋にも、ちゃんと名前があったな」
別の誰かが続けた。周りの村人たちも、興味津々といった顔で誠を見ている。誠は少し考えた。旧堤防のように、一日で終わる仕事ではない。だが、いい加減に積んだものでもない。層を、何度も、何度も重ねてきた。それだけが、この仕事のすべてだった。
「重ね堤」
「重ね堤?」
「層を重ねて作る。それだけの名前だ」
ガインが噴き出した。
「監督らしいな、それ」
「派手な名前は、性に合わない」
どっと笑いが起こった。ミラも、疲れの残る顔で小さく笑っている。ドルガは、その名を口の中で二度繰り返し、満足そうに頷いた。
「重ね堤、か。悪くない。……次に子供らに教える時は、その名で教えよう」
「教える?」
「わしらも、いつまでもお前さんに頼ってはおれん。やり方を知る者が、村に一人でも増えれば、次は自分たちで直せる」
その言葉に、誠は少し驚いた。ドルガの目には、ただ助けを待つ者の顔ではなく、次を見据える者の光があった。
夕日が、堤の新しい断面を橙色に染めていた。旧堤防の残骸と、今日仕上がった重ね堤が、並んで川沿いに横たわっている。同じ土で、同じ川を相手に、まるで違う仕事だった。
ミラが、誠の隣に並んだ。まだ息は整いきっていない。
「監督」
「なんだ」
「私、前は『気味悪い』としか言われなかった魔法で、今、村を守ってる」
誠は堤に目をやったまま、短く答えた。
「そうだな」
「変な気分。悪くないけど」
ミラは小さく笑うと、自分の掌を見下ろした。土でざらついた指先を、確かめるように握り込む。
誠は工程表に目を落とす。今日の分で、全体の六割を超えた。だが、まだ終わりではない。上流側には、まだ手つかずの区画が残っている。
冬の風が、川面を渡って吹き抜けていった。
次回の更新は、8月19日 21:10を予定しています。
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